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2012年2月20日月曜日

2.26世界市民法廷の予告編3:子供たちの倫理「それは僕たち子どもが選択する個人の問題なの」

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或る人から、東京の有名な大学の名誉教授で日本学術会議とかいう学者の団体の幹部の人が、こんなことを言っていると教えてもらいました。

100ミリシーベルト以下でもリスクはないわけではない。‥‥そのようなリスクをどのように判断するのかは個人の選択の範囲だ 「放射線を正しく恐れよう

リスクって、何のことだか、ちゃんと説明してくれないから、僕たち子どもでも理解できる言葉で置き換えてみよう。
(1)、100ミリシーベルト以下の被ばくで、子供たちに健康障害が起きない、つまり安全(白)とは証明されていない。
(2)、100ミリシーベルト以下の被ばくで、子供たちに健康障害が起きる、つまり危険(黒)とも証明されていない(但し、論議の真っ最中で、「限りなく黒に近い灰色」の見解が有力です)。
(3)、だから、100ミリシーベルト以下の被ばくで、子供たちに健康障害が起きるか起きないかは分からない(灰色だ)。
(4)、この「灰色」の状態のことをリスクと呼ぶ。

すると、この偉い先生が、僕たち子供たちに向って言っていることは次のようになります。
100ミリシーベルト以下で「灰色」であるとき、どうするかは、君たち個人の責任で判断し、選択しなさい。

でも、そうなの? 今回の福島原発事故も、本当に、僕たち子どもが(百歩譲っても、親と相談して)自分で判断して、選択する問題なの?

なんでこれを取り上げるか、というと、疎開裁判の裁判所の判断(決定)でも、同じことを言ってるからです。裁判所の判断を、僕たち子どもでも理解できる言葉で置き換えるとこうなる。

(1)、原告の子ども等は、もし被ばくにより危険だと思うなら、自分の判断で、郡山市から安全だと思う場所に転校(ここでは住民票を郡山市に置いたまま転校する区域外通学)すればよい。子ども等にはこれを選択する自由がある。
(2)、しかも、郡山市は子供たちのこの選択の自由を妨害していない。
(3)、だから、裁判で、避難の救済を認める必要はない。
決定20頁)

もちろん僕たち子どもは、簡単に自分だけ転校なんかできない。子どもにも子どもなりの大切な「つなが」があるんだから、そう簡単にバラバラになるわけにはいかない。さらに、親の仕事、生活の都合もある。

でも、百歩譲ってそれらを全て無視したとしても、そもそも次の疑問がある。
被ばくで健康障害が発生するかどうか「灰色」のとき、そこでどうするかは、本来、僕たち子どもが個人個人で判断して決めるべきことなの?

僕たち子どもたちにも主体性と責任はあります。子どもはつい、危険な遊びをしたがります。オモチャも、本来の使い方を無視して、ヤバイ使い方をしてしまうときがあります。そのとき、ひょっとして危険な結果が起きるかもしれない(=灰色の状態)とき、そこでどうするかは、本来、オモチャを使う君たち子どもが個人個人で判断して決めなさい、と言われるのなら納得します。その結果に対しても、それを使った君たち子どもにまず責任があると言われたら納得します。

でも、原発は僕たち子どもがヤバイ使い方をしてこわしたんじゃない。
僕たち子供たちは、原発事故に対して、何も責任はない。
なのに、原発事故によって、危険かどうかははっきり分からない、でもひょっとして取り返しのつかない辞退が発生するかもしれないという大変な事態に巻き込まれた時、それにどう立ち向かうかは、ひとりひとりの個人で判断すべき問題だから、君たち個人の責任で判断し選択しなさい、その選択のみちがあるんだから裁判で避難の救済を認める必要はないって、根本的におかしいんじゃないの?

もちろん、僕たち子どもだって、原発事故でもどんな困難なときでも、自分の目と頭で判断することを決して手放さない。他人を言うことをそのまま鵜呑みにするような依存症候人間には絶対ならない。それは全ての不幸の根源だから。

だけど、それと、一般市民が巨大な人災である原発事故に巻き込まれたとき、危険かどうかが灰色の状態に対して、本来は誰が責任をもって判断すべきかというのは全然別な問題です。

転校しない僕たち子供が本来の責任者なのか?

本来の責任者とそれに連なる人たちはどこだ!

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