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2013年5月4日土曜日

速報【仙台高裁の判決(決定)の紹介(5)】「子ども達の避難の権利・自由」ではなく、憲法に由来する「子ども達を避難させる義務」こそ疎開裁判のエッセンス

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1、はじめに
仙台高裁の判決(決定)の紹介(3)】と【仙台高裁の判決(決定)の紹介(4)】で、事実認定と結論をつなぐ橋について、仙台高裁の判決は2つに分解して、バラバラに橋をかけましたと解説しました。
つまり、
本来、「危険な環境で教育するな」と「安全な場所で教育をせよ」という2つの要求は不可分一体、コインの表と裏のような切り離すことができない関係です。にも関わらず、判決は、これを「2つに分解してバラバラに橋をかけた」のです。

このマジックを可能にした最大の原因は、子ども達の避難について、これを「避難する権利」とだけ強調したことにあります。その結果、これがあたかも「避難する自由」、誰にも邪魔されずに、差別されずに自由に避難できること、といった意味に矮小化されてしまうおそれがあります。しかし、それでは避難の問題の本質が見失われてしまう。
仙台高裁も、「子どもたちは、自主避難すれば、避難先の市町村の学校が受け入れてくれるから、それで放射線障害から解放されるという目的は十分に達成できるはずである」(16頁6~7行目)と、この「避難する自由」を行使すれば一丁あがりでケリをつけようとしました。

2、本論
疎開裁判は科学裁判であるばかりでなく、憲法裁判、人権救済裁判です。
なぜ、憲法裁判であることが重要かというと、それは、避難について憲法を持ち出すことにより、初めて、疎開・避難の本質が、「個人の避難の権利・自由」の問題ではなく、何よりも「国家・自治体に課せられた子どもたちを避難させる義務」であると捉えることが可能になるからです。

憲法や法律の本質は「~せよ」「~するな」という命令です。ただし、憲法の、他の法律との際立ったちがいは、法律が普通、命じる相手とは私たち市民です。私たち市民に向かって、人を傷つけるな、人の財産を侵害するな、と命じます。
ところが、憲法が命じる相手は全くちがいます。それは国家だからです。つまり、国家に対して、お前は決して市民の人権を侵害しないようにしろと命じたのが憲法です(だから、国家は、その本性上、国家に厳しく命令する憲法をできるだけ緩やかにしたい、我がもの顔で振舞いたいと憲法改正を夢想せずにおれないのです)。

例えば、人権の古典である自由権の代表的なものとして、表現の自由(憲法21条)。
表現の自由が憲法で保障された本質的な理由は、市民が自由に表現できるという権利や自由を定めたことにあるのではなく、何よりも第一に、国家は市民の表現活動を妨げてはならない、妨害するなという「国家の義務」を定めた点にあるのです。

このことわりは人権の進化の歴史の中で登場した社会権では一層妥当します。
教育に関する26条。これは、子どもに教育を受ける権利を保障したものと言われますが、ここで重要なことは、国家に、子どもが大人に成長するのに必要な教育を子どもに実施する積極的な義務を課したことです。これを単なる権利・自由とするなら、権利の上に眠って、教育を何も要求しない子どもは放置されても仕方ないといった自己責任論の議論になりかねません。そんなバカな話はありません。子どもはどんなに黙っていても、国はその子どもに必要な教育を実施する積極的な義務を免れません。これが憲法が定める国家の義務というものです。

その国家の義務の1つとして、「安全な環境で教育を実施する義務」があります。
さらに、この国家の義務は、「危険な環境で教育をするな」(という不作為)と「安全な環境で教育をせよ」(という作為)の2つが不可分一体のセットとしてあります。

この2つをバラバラに分解して、別個に考えることはできません。なぜなら、「危険な環境で教育をするな」だけなら、極端に言えば、仙台高裁の判決の14~15頁のように、学校教育を何もしなければよい。しかし、これでは国が負っている「子どもに必要な教育を実施する積極的な義務」を何も果していないことは明らかです。
 危険な環境で教育をしないように取り組むと同時に、安全な環境で教育をするように取り組むことで初めてこの義務が全うされるのです。

以上から、この2つの不可分一体の関係を正しく説明できるのは、 「子どもたちの避難の権利・自由」ではなく、憲法に由来する「「安全な環境で子どもたちの教育を実施する義務」に立ったときだけです。
                                         (文責 弁護団 柳原敏夫)

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