1、一つのエピソード(七対一の荒野の決闘)
児玉龍彦東京大学アイソトープ総合センター長は、昨年7月27日、国会で低線量被ばくの問題について参考人として証言したあと、昨年11月25日「第4回低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」に呼ばれ話をしましたが、その顛末を、金子勝氏との共著「放射能から子どもの未来を守る」の中でこう紹介しています(181頁)。
このワーキンググループは、これまでの原子力政策にかかわってきた、「低線量被曝はあまり問題ない」と言う医学者、専門家が7名出席していた。
そのメンバーがあまりに、これまでの「低線量被曝は安全だ」と言う研究者に限られていることに、日本弁護士会連合会の宇都宮健児会長が批判の声明を発表しているほど、偏った人選であった。
最初、ワーキンググループ出席依頼のあったときにはお断りした。メンバーを見たら、議論が平行線になるのは目に見えていたのである。しかし、彼は、現在の中心テーマでお世話になっている人からのたっての依頼で断り切れず、参加することになりました。 以下は当日の報告です。
私は、本書で紹介したように、低線量被曝は遺伝子の切断を生み出すこと、それに対してヒトの細胞は、修復の仕組みが働きだすこと、だが修復のときに、大半の遺伝子は正常化するにもかかわらず、染色体の7番のようにエラーが起こることがあり、それががんに至ることを報告した。
このゲノム科学の成果については、7人の反対側の委員からは誰も発言がなかった。
理由は単純明快です。
ゲノム科学は、それまでの恣意的な一部のデータによる統計学と違って網羅的、系統的であり、それがより正確であることに異論は挟めない
からです。その結果、どうなったかというと、
そこで反論は、膀胱がんの一点に集まった。
なぜなら、「チェルノブイリで膀胱がんが増えることは疫学的に証明されていない」
からだというのです。
これに対し、児玉氏は、低線量被ばくから住民の健康を守るために何をなすべきか?という科学の原点に立ち帰って問題を論じようとしました。つまり、
私は、トロトラストの肝がんでも成人のがんの増加は30年たってようやく証明できるようになっている。成人の膀胱がんの増加は、チェルノブイリから25年しかたっていない現在ではまだ困難であろう。今、大事なのは、何十年もかかる疫学データすべてがそろうのを待つことではなく、公害問題で確立された「予防原則」にしたがって放射性物質を取り除き、住民の健康を守ることである、とくり返し述べた。
この「科学は誰のためにあるか?」という根本を問う児玉氏の問題提起に対し、原子力ムラの人たちは何と答えたか。
しかし、座長の前川和彦先生のひと言は、強圧的だった。
「疫学的データがないことを認めるのか。イエスかノーか!」 (183頁)
2、原子力ムラの掟「疫学的証明にあらずんば証明にあらず」がもたらした悲劇
3.11以来、科学に問われている最大の課題は「低線量被ばくから住民の健康を守るために何をなすべきか?」です。
それに対する児玉氏の見解の表明に対して、 原子力ムラの人たちが問うたのは
問題は「疫学的データがあるかどうか」
もっと端的に言えば「疫学的データがないことを認めるのかどうか。イエスかノーか」
です。
これは、あたかも「平家にあらずんば人にあらず」「薩長にあらずんば人にあらず」 と同じ位の「疫学的証明にあらずんば証明にあらず」の態度です。
では、なぜ、彼らはこれほどまでに疫学的証明にこだわるのか。その最大の動機は単純明快です。
疫学的データはない。
↓
低線量の被ばくからこれこれの健康障害が発生したという証明はない。
↓
証明がない以上、安易に、これこれの健康障害の危険があると不安がるべきではない。
↓
わざわざ避難することも、何か積極的な対策を取ることも必要ない。
つまり、疫学的証明は 「低線量被ばくから住民の健康を守るために何をなすべきか?」について、別に何もする必要がない、という結論を導き出すことができるアラジンの魔法のランプだからです(従って、話題が被ばくの危険性ではなく、原発の安全性となったとき、「安全性の証明」に関して、彼らは一転して、「疫学的証明」話法を語らない)。
例えば、疎開裁判の一審裁判所(福島地裁郡山支部)は昨年12月16日、14名の子供たちの避難の申立てを否定する判断を下した際、その最大の理由は、
100ミリシーベルト以下の被ばくでは健康障害について「実証的な裏付けがないこと」 (19頁末行)
でしたが、この「実証的な裏付け」とは疫学的証明のことを意味します。すなわち、裁判所の、子供たちの避難を認める必要がないという判断は、100ミリシーベルト以下の被ばくでは健康障害が発生するかどうか疫学的証明がないことを最大の根拠にしたのです。
100ミリシーベルト以下の被ばくでは健康障害について「実証的な裏付けがないこと」 (19頁末行)
でしたが、この「実証的な裏付け」とは疫学的証明のことを意味します。すなわち、裁判所の、子供たちの避難を認める必要がないという判断は、100ミリシーベルト以下の被ばくでは健康障害が発生するかどうか疫学的証明がないことを最大の根拠にしたのです。
しかし、児玉氏は、それはチェルノブイリの悲劇から何も学んでいないことだと指摘します。
1991年、ウクライナの学者が子どもに甲状腺がんが多発していることを発表しました、しかし、ソ連崩壊後、賠償責任のからむロシアの学者がまず異をとなえ、日本やアメリカの研究者は、「原発事故による低線量の被曝とがんとの因果関係はわからない」と懐疑的な立場をとりました。1986年以前のデータがないので、統計学的に有効ではないというのが理由です。(124頁)
ようやく事故と病気の因果関係が証明されたのは、事故から20年たち、4000人の甲状腺がん患者が出たあとでした。
(児玉龍彦「内部被曝の真実」(幻冬舎新書)第三部チェルノブイリ原発事故から甲状腺がんの発症を学ぶ――エビデンス探索20年の歴史と教訓 参照)
このチェルノブイリの悲劇に対して、これまで次の2つの態度が存在しました。(児玉龍彦「内部被曝の真実」(幻冬舎新書)第三部チェルノブイリ原発事故から甲状腺がんの発症を学ぶ――エビデンス探索20年の歴史と教訓 参照)
3、チェルノブイリの悲劇に対する2つの態度
①.ひとつは、これが悲劇であることを認めようとせず、そこから何ひとつ学ぶことはないとする態度。
従って、この態度を取る人たちは、福島でも、同様の悲劇をくり返すことを何とも思わない人たちです。
②.もうひとつは、児玉龍彦氏のように悲劇であることを認め、その悲劇をくり返してはならないと肝に銘じ、この悲劇から最大限、教訓を学び取ろうとする態度。
①の典型が、2004年のドキュメンタリー「真実はどこに?」に登場するIAEAの代表の次の発言です。
我々は現在何を知っているのか?
実は新たな情報など何も無いのです
こで賞金100万ドル級の難問を一つ
予想できない影響は測定もできないのに、本当にあると言えるのか
よくある質問です
私の回答はこうです
これは解決不能な科学認識論の問題で、直接理解する術はない
私達は知らないのです(12分~)
つまり、国際原子力ムラや日本の原子力ムラの人たちに共通する態度です。
②の典型が、上記のドキュメンタリー「真実はどこに?」に登場するヤブロコフ・ネステレンコ報告の作者アレクセイ・ヤブロコフ、ワッシーリ・ネステレンコ、心臓病などがん以外の疾患で画期的な発見をしたユーリ・バンダジェフスキー、ECRR(欧州放射線リスク委員会)科学事務局長のクリス・バズビー、WHOの欺瞞性を告発するミシェル・フェルネクスたち、日本では京都大学原子炉実験所の熊取六人衆(今中哲二、小出裕章各氏ら)、市民と科学者の内部被曝問題研究会(肥田舜太郎、沢田昭二、矢ヶ崎克馬、松井英介各氏ら)、チェルノブイリで5年半、甲状腺疾病の治療にあたった菅谷昭氏たちです。
4、疎開裁判の真実の証明に対する正しい態度
では、前代未聞の疎開裁判において、真実(低線量被ばくによる健康障害の発生)に関する証明はどうあるべきなのでしょうか。
過去に前例がないときの基本的な態度は「原点に帰る」ことです。今回も、法と裁判の原点に帰るだけです。
言うまでもなく、法の根本理念は「正義・公平」です、紛争を解決する裁判の極意は「臨機応変」です。 つまり、法と裁判の原点とは正義・公平にかなった臨機応変の態度を発見することです。それは「証明」、ここでは「低線量被ばくによる健康障害の発生」に関する証明でも妥当します。言い換えれば、いかなるケース(紛争)において、いかなる証明が用いるのが適切かは、全て、正義・公平の理念に照らし、臨機応変に決定すべき問題です。
従って、「疫学的証明にあらずんば証明にあらず」を金科玉条のごとく崇める態度は、少なくとも法と裁判の原点にとって無縁です。
第一、法は、証明を疫学的証明に限るとはどこにも書いていません。それどころか、最高裁は、原因行為と健康障害との因果関係の証明に関し、次のように述べています。
「訴訟上の因果関係の立証は、1点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した 関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、か つそれで足りる」(1975年10月24日最高裁判決「東大病院ルンバール事件」)
5、疎開裁判における具体的な証明方法
疎開裁判が提起する問題は、長期間を要する大量のデータの収集を待ってから解決すればよいというゆうちょな問題ではありません。全てを差し置いてでも、復興の中で真っ先に取り上げられなければならない差し迫った最優先課題です。
「証明方法」も、この疎開裁判の本質に踏まえて、正義・公平の理念に照らし、臨機応変に決定すべきです。
この点、児玉氏は、疫学的証明に代わる別な証明方法を提唱しており、ここでは次の2つを取り上げます。
①.事実論
児玉氏が「低線量の被曝は避けたほうがいいと自信を持って言える」(「放射能から子どもの未来を守る」185頁)と表明するとき、その根拠となっている次の科学的知見です。
――現代は、何も疫学的証明ばかりに頼らなくても、最先端の分子生物学(ゲノム科学)の成果により低線量被ばくによるがん発生の基本的なメカニズム(放射線で切断された遺伝子が再結合される際の修復のエラー(ミス)から起こることが解明されているからである。小児甲状腺がんであれば、染色体7番のq11という領域で放射線で切断された遺伝子の修復ミスで発生することが明らかにされている(同上.124~125頁・185頁)。
これは昨年9月、疎開裁判に提出した矢ヶ崎意見書の12頁に詳しく述べられていることです。
②.法律論
もうひとつが、上記の科学的知見(事実論)を踏まえた次の社会的、倫理的な価値判断です
――「今、大事なのは、何十年もかかる疫学的データすべてがそろうのを待つことなく、公害問題で確立された「予防原則」にしたがって放射性物質を取り除き、住民の健康を守ることである」(同上182~183頁)。
児玉氏は説明していませんでしたが、この「予防原則」で最重要なものが「立証責任の転換」と言われるものです、つまり、市民が「被ばくと健康障害との間に因果関係があること」を証明するのではなく、市民から訴えられた行政や加害企業の側に「被ばくと健康障害との間に因果関係がないこと」を証明する責任が転換し、その証明ができない限り、因果関係が認められることになるというものです。
これが認められると、昨年12月16日の一審裁判所(福島地裁郡山支部)の判断もあべこべになります。なぜなら、たとえ、
100ミリシーベルト以下の被ばくでは健康障害について「実証的な裏付けがないこと」 (19頁末行)
を前提にしても、立証責任の転換により郡山市が、「100ミリシーベルト以下の被ばくでは健康障害がないこと」について、立証する責任があるため、それができない限り、100ミリシーベルト以下の被ばくで健康障害が発生するとみなされて、子供たちの避難を認める必要がある、という正反対の結論が導き出されることになるからです。
これが、正義・公平の理念に照らして臨機応変に決定したときのやり方というものです(※)。
(※)さらに言えば、そもそも疎開裁判を申立てた子どもたちは福島原発事故の純粋な被害者です、なおかつ科学技術の素人です。これに対し、疎開裁判の相手方(郡山市)は福島原発事故の加害者であり科学技術の専門家集団を擁する国と共に「子供たちを安全な環境で教育を実施する憲法上の責務」を負っている者です。このような事情にある当事者同士の裁判で、申立人である子どもたちに、被ばくと健康障害との間に因果関係があることを立証する責任があると、一審裁判所の判断のように民事裁判の一般論を機械的、形式的に当てはめて、果してそれで済むのでしょうか。これが、法の根本理念である正義・公平に反するのは自明です。
のみならず、私たちは、既に、チョルノブイリ事故による放射能汚染と健康被害という甚大な犠牲の上に手にした貴重なデータとの比較調査から、福島の未来を予見することができます。それについては、既に裁判所に提出した矢ヶ崎意見書3頁以下、松井意見書11頁以下、バズビー論文、松崎意見書等で明らかにしています。
6、まとめ
以上から、原子力ムラや一審裁判所の判断のように、「被ばくと健康障害の間に疫学的証明がない」というひとことをもって、被ばくと健康障害の間に因果関係がないと結論を引き出すことはできません。
子供たちの救済という目の前の差し迫った問題を解決するためには、
①.事実の次元で、分子生物学やチョルノブイリ事故に関するデータとの比較調査といった成果を活用して(事実的)因果関係の解明に努め、
②.さらにそれを基礎として、法的次元で、正義・公平や予防原則の観点などの法的価値判断を踏まえて、(法的)因果関係について最終的な結論を引き出す必要があるのです。
(※)以上を、今回の抗告人準備書面(1)の第1、はじめに、児玉氏の証言その他の証拠で主張・立証しました。
過去に前例がないときの基本的な態度は「原点に帰る」ことです。今回も、法と裁判の原点に帰るだけです。
言うまでもなく、法の根本理念は「正義・公平」です、紛争を解決する裁判の極意は「臨機応変」です。 つまり、法と裁判の原点とは正義・公平にかなった臨機応変の態度を発見することです。それは「証明」、ここでは「低線量被ばくによる健康障害の発生」に関する証明でも妥当します。言い換えれば、いかなるケース(紛争)において、いかなる証明が用いるのが適切かは、全て、正義・公平の理念に照らし、臨機応変に決定すべき問題です。
従って、「疫学的証明にあらずんば証明にあらず」を金科玉条のごとく崇める態度は、少なくとも法と裁判の原点にとって無縁です。
第一、法は、証明を疫学的証明に限るとはどこにも書いていません。それどころか、最高裁は、原因行為と健康障害との因果関係の証明に関し、次のように述べています。
「訴訟上の因果関係の立証は、1点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した 関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、か つそれで足りる」(1975年10月24日最高裁判決「東大病院ルンバール事件」)
5、疎開裁判における具体的な証明方法
疎開裁判が提起する問題は、長期間を要する大量のデータの収集を待ってから解決すればよいというゆうちょな問題ではありません。全てを差し置いてでも、復興の中で真っ先に取り上げられなければならない差し迫った最優先課題です。
「証明方法」も、この疎開裁判の本質に踏まえて、正義・公平の理念に照らし、臨機応変に決定すべきです。
この点、児玉氏は、疫学的証明に代わる別な証明方法を提唱しており、ここでは次の2つを取り上げます。
①.事実論
児玉氏が「低線量の被曝は避けたほうがいいと自信を持って言える」(「放射能から子どもの未来を守る」185頁)と表明するとき、その根拠となっている次の科学的知見です。
――現代は、何も疫学的証明ばかりに頼らなくても、最先端の分子生物学(ゲノム科学)の成果により低線量被ばくによるがん発生の基本的なメカニズム(放射線で切断された遺伝子が再結合される際の修復のエラー(ミス)から起こることが解明されているからである。小児甲状腺がんであれば、染色体7番のq11という領域で放射線で切断された遺伝子の修復ミスで発生することが明らかにされている(同上.124~125頁・185頁)。
これは昨年9月、疎開裁判に提出した矢ヶ崎意見書の12頁に詳しく述べられていることです。
②.法律論
もうひとつが、上記の科学的知見(事実論)を踏まえた次の社会的、倫理的な価値判断です
――「今、大事なのは、何十年もかかる疫学的データすべてがそろうのを待つことなく、公害問題で確立された「予防原則」にしたがって放射性物質を取り除き、住民の健康を守ることである」(同上182~183頁)。
児玉氏は説明していませんでしたが、この「予防原則」で最重要なものが「立証責任の転換」と言われるものです、つまり、市民が「被ばくと健康障害との間に因果関係があること」を証明するのではなく、市民から訴えられた行政や加害企業の側に「被ばくと健康障害との間に因果関係がないこと」を証明する責任が転換し、その証明ができない限り、因果関係が認められることになるというものです。
これが認められると、昨年12月16日の一審裁判所(福島地裁郡山支部)の判断もあべこべになります。なぜなら、たとえ、
100ミリシーベルト以下の被ばくでは健康障害について「実証的な裏付けがないこと」 (19頁末行)
を前提にしても、立証責任の転換により郡山市が、「100ミリシーベルト以下の被ばくでは健康障害がないこと」について、立証する責任があるため、それができない限り、100ミリシーベルト以下の被ばくで健康障害が発生するとみなされて、子供たちの避難を認める必要がある、という正反対の結論が導き出されることになるからです。
これが、正義・公平の理念に照らして臨機応変に決定したときのやり方というものです(※)。
(※)さらに言えば、そもそも疎開裁判を申立てた子どもたちは福島原発事故の純粋な被害者です、なおかつ科学技術の素人です。これに対し、疎開裁判の相手方(郡山市)は福島原発事故の加害者であり科学技術の専門家集団を擁する国と共に「子供たちを安全な環境で教育を実施する憲法上の責務」を負っている者です。このような事情にある当事者同士の裁判で、申立人である子どもたちに、被ばくと健康障害との間に因果関係があることを立証する責任があると、一審裁判所の判断のように民事裁判の一般論を機械的、形式的に当てはめて、果してそれで済むのでしょうか。これが、法の根本理念である正義・公平に反するのは自明です。
のみならず、私たちは、既に、チョルノブイリ事故による放射能汚染と健康被害という甚大な犠牲の上に手にした貴重なデータとの比較調査から、福島の未来を予見することができます。それについては、既に裁判所に提出した矢ヶ崎意見書3頁以下、松井意見書11頁以下、バズビー論文、松崎意見書等で明らかにしています。
6、まとめ
以上から、原子力ムラや一審裁判所の判断のように、「被ばくと健康障害の間に疫学的証明がない」というひとことをもって、被ばくと健康障害の間に因果関係がないと結論を引き出すことはできません。
子供たちの救済という目の前の差し迫った問題を解決するためには、
①.事実の次元で、分子生物学やチョルノブイリ事故に関するデータとの比較調査といった成果を活用して(事実的)因果関係の解明に努め、
②.さらにそれを基礎として、法的次元で、正義・公平や予防原則の観点などの法的価値判断を踏まえて、(法的)因果関係について最終的な結論を引き出す必要があるのです。
(※)以上を、今回の抗告人準備書面(1)の第1、はじめに、児玉氏の証言その他の証拠で主張・立証しました。