11月14日(月 )子ども脱被ばく裁判、第5回控訴審が行われました。
現地には支援者の皆さんが駆けつけ、原告団および弁護団の皆さんと裁判前の集会およびデモ、裁判後に記者会見と報告集会が行われました。
①肴町公園 デモ前ミニ集会
14日(月)早朝、仙台高裁での子ども脱被ばく裁判の応援へボランティア仲間達と向かいました。
報告集会を行う会場での受付、販売等を担当の為、集合時間の10時に会場に到着しました。
いつも会場準備やデモの申請、デモ責任者など引き受けて下さっている 仙台の支援者の皆さんのお陰で準備や打ち合わせを終わらせ、原告、弁護団、支援者が集合している肴町(さかなまち)公園へ急ぎ、福島、関西や関東から駆けつけた顔なじみの支援者の方々と挨拶を交わしました。
公園は秋の終わりを感じる落ち葉が地面を覆っていましたが、まだ綺麗な紅葉もあちこちにありしばし心を和ませてくれました。
今野原告代表、水戸共同代表、弁護団の挨拶のあと、仙台高裁へ向かって市内アピールのデモに出発しました。
③ 記者会見、報告集会
証人申請をすべて却下した!😡
司法の壁は厚かった。
しかし、
これで終わらせるわけにはいかない。
なかったことに させるわけにはいかない。
私達が出来る事は何か。。。
反撃の狼煙をあげなければ子ども達は救われない。
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民の声新聞の鈴木さんが 早速 記事を書いて下さいましたので ご案内させて頂きます。
動画をご覧ください。
冨塚
11月14日、子ども脱被ばく裁判控訴審第5回口頭弁論期日報告
午前中裁判前のミニ集会とデモが行なわれました。参加者は約50人でした。
青葉通りのけやきの木は葉を落とす最中でした。前回第4回口頭弁論期日の時の青葉から様変わりしたけやき並木の仙台でした。前日仙台の世話人(デモ責任者)の方から脱被ばく実現ネットのメンバーにメールが入り、デモに対して警察から注意があったということでした。主な注意事項の一つは、デモの時に歩道の人にチラシを配るのは条例違反なので止めてほしい。もう一つは、デモの最後尾のさらに後ろから写真取るのは、交通事故につながるので止めてほしい、ということでした。これまでのデモでは聞いたことのないことで権力の圧力を感じました。デモ責任者とデモ参加者に分断を持ち込みデモをやりにくくする意図を感じました。デモはこの日もシュプレヒコール無し、マイクを持ったメンバーが1人アピールするものでした。「福島の子どもを放射能から守りましょう、甲状腺がんの子どもたちを支援しましょう。」なんの問題もない穏やかなデモでした。
裁判を傍聴したのは55人くらいで、河北新報や福島の新聞記者も来ていました。
前回は、子ども人権裁判の分離が認められたので、この日は証人尋問も認められると皆が期待しました。しかし申請した5人の証人の全員が却下されました。
裁判長は必要がないというだけで、まともな説明はありませんでした。
原告側弁護団は、福島地裁判決の「すべて行政の裁量権の範囲内だ」というのはおかしい、判断を下した責任者に対し「何を考慮して何を考慮しなかったか」問いただす必要があると主張しましたが、残念ながら認められませんでした。
原告側から柳原弁護士が、被告福島県の山下俊一氏に関する反論に再反論を行いました。県はこれまで原告の山下氏責任追及への反論はしませんでしたが、急に大々的に反論してきたので再反論を行いました。責任追及されたままではまずいという原子力村の思惑があったと思われます。
田辺弁護士は次回以降、国連人権理事会の特別報告者ダマリー氏の訪日調査の報告(最終報告ではないが)において、「区域外避難者も区域内避難者も同様に行政が生活と健康を保障すべきことを日本政府に勧告している」ことを強調する予定です。
この日意見陳述したのは、原発事故後子どもの健康のために郡山から福岡県に避難した若いお母さんでした。避難しようかどうか迷っているとき、2011年の夏にある講演会で保養という言葉を聞き、山形や新潟に行って解放された気持ちになったそうです。同年10月には叔母さんの住んでいるオーストラリアに行ったとき、地面に手をつく当たり前のことができない福島は暮らすところでない、と思って避難を決心したそうです。しかし、福岡での生活に馴染めなかった夫はストレスから軽いうつ病になり福島に帰り、離婚せざるを得なかったそうです。実家の両親は時々来てくれますが日頃寂しい思いさせています。事故後、国や県は正しい情報を知らせることなく、多くの人が無用の被ばくをさせられました。避難した人も、しなかつた人も我が子の将来の健康を心配しています。行政にやるべきことをやらせるような判決が望みです。
以上 冨塚元夫 2022年11月14日
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第5回子ども脱被ばく裁判、仙台高裁口頭弁論に参加して
子ども脱被ばく裁判が福島地裁で開催されていた時は、
デモはやらず、集会と地裁の傍聴行動だった。
私たちは、少しでも市民に知ってもらいたいと裁判が始まる前に、
福島駅前で裁判開催チラシと脱被ばく実現ネットのチラシをセットにして、
福島市民に約1時間配布し、裁判の傍聴券を求め列に並んだ。
子ども脱被ばく裁判福島地裁の、遠藤東路裁判長は
法廷に入り、礼をして着席後、すぐに「却下する」とだけ告げ、
詳細は語らず、原告に対して冷酷、非礼な態度だった。
仙台高裁では、控訴審が開催されるたびに、仙台の支援者たちが
前段集会とデモを計画し、仙台市内の五橋公園や肴町公園など様々な
公園から仙台高等裁判所前まで、ミニ集会やデモを計画している。
仙台市内の多くの商店が集まり人々が行きかう、一番街アーケード街を
巡り、あおば通りをデモ行進をして、市民に訴えてきた。
今回も、仙台の支援者たちは前段集会、デモ、記者会見、裁判報告集会を
企画し準備してきていた。
前回の口頭弁論の際、石栗仙台高裁裁判長は丁寧に弁護団に接し、
親子裁判の分離裁判を認め、やわらかい物腰の対応を見せていた。
ひょっとすると証人尋問を認めるのではと期待していた。
今回、第5回口頭弁論では、原告の若い女性は東日本大地震の時、
初めての出産で、生後40日の子どもを抱き、恐怖の中で過ごした事、
当時の政府は「直ちに影響はないと伝えていたこともあり、悩みながらも避難せず、
不安のまま過ごしていた事。事故後、叔母の住むオーストラリアに行き、
腹の底から深呼吸し、大地に足をつけられた時に、これが当たり前の姿と実感し、
2012年1月に福岡に避難。
被ばくの危険から離れ、子どもは順調に育つ生活を送っている。
夫は避難先になじめず、福島に帰り、離婚となった。
生まれ故郷に帰りたいが、生まれてきた命を守りたい。
被ばくの危険が高い福島に帰れない。
国や福島県が事故の情報を迅速に伝えてくれていたら無用な被ばくをしないですんだ。
将来を生きる子供たちが健康に生きていけるよう公正な判決を求めると訴える陳述に
石栗裁判長も耳傾けていた。
しかし、弁護団の求める、裁判の充分な審査、その為に内堀知事他5人の証人尋問を
「証拠調べは考えず、5人の証人尋問はしない」と表情を変えず発言した。
法廷は「え~」「なんで~」と声が上がりざわつき、法廷内の空気が怒り、
不満モードに変わった。
弁護団も原告も、支援者も、分離裁判を認め、物腰柔ら書く、丁寧な対応の
石栗裁判長が、まさか1人の証人尋問も許さないとは思わなかったと思う。
前回は、期待できそうと印象付けた石栗裁判長に、証人尋問を許さないと
宣告した態度の変化は、何かに影響されたとしか思えない。
今回デモ申請許可に、宮城県公安委員会は宮城道路交通法規則を守ることを
必要以上に強制し、デモ申請担当者に迫ったようである。
77条には、「道路に、のぼり、旗、拡声器、楽器等で宣伝するな」と書かれている。
デモなどを取り締まる側の論理で書かれ、これを強く守らせようとするのは、
表現の自由と権利を保障する、憲法を無視していると感じざるを得ない。
このような警察の強制的な態度と、石栗裁判長の今回の証人尋問を
1人も認めない強い態度に危機感を感じている。
私たちはここでもう一度、子ども脱被ばく裁判判決は、
事故直後に提訴され、仙台高裁の判決が出ている
”ふくしま集団疎開裁判” 判決(福島県で生活や教育を受けるには
放射能被ばくの危険があると認めるも避難は個人で)内容よりも、
それ以上の内容の判決を引き出す為に自覚と行動が試される。
石栗裁判長への嘆願書的な手紙、公正な裁判を求める署名を集める、
より大きく世論を高めるための集会、デモ。マスコミを動かす良い手、
つてはないか。
ふくしま集団疎開裁判では、院内集会を持ち、国会議員へ働きかけ、
各議員の国会事務所をまわり、要請行動をした。
もっと何か出来る事はないだろうか。
いや、やらなければ良い判決は出てこないだろう。
子どもたちの未来のために恐れず、萎縮せず粛々とやりたい。
次回の口頭弁論は2023年2月1日(水)、子ども人権裁判の判決が出される。
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