告知

告知 ①12.14(第2土曜日)新宿アルタ前 街頭宣伝 14時~15時  ~「東海第二原発いらない一斉行動」第14弾に参加~

2012年7月6日金曜日

「6.24」提訴から一周年の思い――なぜ、ふくしまで集団疎開が実現しないのか(7.19一部追加)


弁護団 柳原敏夫
           目  次
1、はじめに--二度目の3.11(人災)
2、福島原発事故の未来は原発事故の過去にある
3、三大政策1つ「情報を隠すこと」の核心が子どもの被ばく情報だった
4、三大政策1つ「様々な基準値を上げること」の動機が子どもの疎開を阻止するためだった
5、なぜキエフで子どもたちの集団疎開が実現したにもかかわらず、日本では実現しないのか
6、認識をまちがえた善意の献身が最悪の事態をもたらす――事故直後の犠牲者の殆んどが事故の認識をまちがえた善意の献身者たちで、落命は避けられた人災だった
7、「最も悪いのは放射能を怖がる精神的ストレス」論の起源はベトナム・シンドローム
8、原子力ムラの御用学者の起源は「水爆の父」と呼ばれたエドワード・テラー
9、原発事故は形を変えた核戦争であり、放射線と戦争の原理原則が貫徹される
10、事故5年後に制定された住民避難基準はチェルノブイリの憲法9条である
11、もし住民避難基準がもっと早く事故直後に制定されていれば98万人余の犠牲は避けられた
12、もし戦争終結がもっと早ければ、ヒロシマ・ナガサキの悲劇はなかった
13、おわりに--泣くのなら、今思い切り泣く、5年、10年後には泣かない

1、はじめに--二度目の3.11(人災)
憲法は子どもたちに「教育を受ける権利」を保障しています(26条)。この権利の中には「安全な環境で教育を受ける権利」も含まれています。つまり、ふくしまの子どもたちは「放射能の危険のない安全な環境で教育を受ける権利」が憲法上保障されています。これを否定できる者は誰もいないでしょう。

他方で、人権の基本原理によれば、最高の価値が認められる「人権」、これを制約できるものがあるとしたら、それはただひとつしかありません。同じく、最高の価値である人権です。つまり人権が制限されるのは人権と人権同士の衝突=「他者の人権との衝突」の場合しかないのです。
ところで、福島原発事故に遭った子どもたちには、彼らの人権(安全な環境で教育を受ける権利)と衝突する他者の人権などありません。衝突があるとしたら、それは基本的にお金の問題だけです。「人権(命)対お金」の衝突。そこでは人権に軍配が上げるが当然です。ましてや、国はかつて(1959年)、原発導入にあたって、原発事故による被害額を国家予算の2.2倍(現在の国家予算なら200兆円)と試算済みです(報告書「大型原子炉の事故の理論的可能性及ぴ公衆損害に関する試算)。元々それだけの損害額を覚悟して原発の導入を推進したのです。金銭的にも福島県の子どもたちの避難を不可能だという言い訳は通用しません。

念のために言えば、福島第一原発は子どもたちが遊んで壊したのではありません。また、彼らが自分の意思で原発を誘致したわけでもなければ、誘致を容認してきたわけでもありません。子どもたちは福島原発事故に対して何ひとつ非難も責任もガマンも負わされることのない存在なのです。

 さらに、この疎開裁判は既に発生した巨大原発事故の、今ここで命が危険に晒されている子どもたちを救済するという現在進行中の緊急避難の裁判です。「未来の子どもを守る」という未来の事故の未然防止のために原発を差止めるといった裁判とは緊急性のレベルがぜんぜんちがいます。

ですから、裁判所が門前払いさえしなければ、天地がひっくり返らない限りこの裁判は負ける筈がない、子どもたちの被ばくの危険性を否定できるはずがない、そう確信していました。そして裁判所は門前払いをしませんでした。にもかかわらず、昨年1216日の野田首相の欺瞞的「冷温停止宣言」とほぼ同時刻に合わせて、子どもたちの申立ては却下されました。天と地がひっくり返ったのです。私にとって、3.11の事故にも劣らない位の事故であり、衝撃でした。
社会が道徳的に健全であるかどうかをはかる基準として、社会の最も弱い立場の人たちのことを社会がどう取り扱うかという基準に勝るものはなく、許し難い行為の犠牲者となっている子どもたち以上に傷つきやすい存在、大切な存在はありません。
こう言ったのはチョムスキーです。この真理はチョムスキーでなくても世の支配者でも理解していることです。だから、世界大戦の日本の軍国主義の末期の時代ですら子どもたちの集団疎開が実行されたのです。それがなぜ今の時代に実行できないのか。それにはそれなりの訳がある筈です。
爾来、「天と地がひっくり返った」のはなぜか、それは何を意味するのか。ひっくり返った天と地を元通りに戻すにはどうしたらよいのか。そのことを考え続けてきました。以下はそれについて現在進行形の覚書です。


2、福島原発事故の未来は原発事故の過去にある
 なぜ過去の歴史を学ぶのか、これについて柄谷行人はこう述べています。
小説の未来は小説の過去にある、と後藤明生が書いている。小説が何処へ行くかを問うには、それがどこから来たかを問うべきである。‥‥これはほかの領域にもあてはまる。われわれがどこへ行くのかを問うには、どこから来たかを問うべきである。資本主義の未来は、資本主義の起源にある。(批評空間93NO.9編集後記)
これを被ばくの歴史に当てはめるとこうなります。
福島原発事故でわれわれがどこへ行くのかを問うには、それがどこから来たかを問うべきである。福島原発事故の未来は原発事故の過去にある。福島原発事故の未来は過去最大の原発事故つまりチェルノブイリ事故にある。
ただし、柄谷行人は、その際、それらの過去を「普通に問えると思ってはならない」、注意深くあらねばならないと警告します。様々な理由により過去は用意周到に歪められ、隠され、ねつ造されているからです。例えば2001年の9.11の同時多発テロの意味をその過去から正しく学ぶためにはねつ造された過去を見破るチョムスキーの慧眼が必要でした。

この意味で、今中哲二さん、小出裕章さん、ベラルーシの研究者M.V.マリコ氏らが取り組んだ「チェルノブイリによる放射能災害--国際共同研究報告書」(1998年)は事故による影響を科学的に分析した我々市民にとっての宝物です。

それに対し、事故による影響を政治的・社会的に分析した文献として、
中川保雄(中川恵一氏ではありません)さんの遺作「放射線被曝の歴史」(1991年)と七沢潔さんの「原発事故を問う--チェルノブイリからもんじゅへ」(1996年岩波新書)を推薦します。
中川保雄さんは科学技術史専攻の研究者で、3.11まで放射能に全く無知だった私が、この本で初めて被ばくについて信頼して学ぶに値する文献に出会えたと思えました(そこから、アリス・スチュアート、スターングラス、ロザリー・バーテル「人間と放射線」のジョン・ゴフマンの存在も初めて知りました。以下は、その当時読んで作った「ICRPの歴史年表」と「ICRP勧告の歴史のグラフ」です)。 
七沢潔さんは、昨年5月に放送され、大きな反響を呼んだ「ネットワークでつくる放射能汚染地図」の番組制作に関わったジャーナリストです。

疎開裁判の申立から年が経った先ごろ、七沢さんの「原発事故を問う」を読んだとき、これは10年前の過去のチェルノブイリ事故のことを語っているのではなくて、15年後のふくしまの未来のことを語っているのではないかと錯覚したほどでした。それくらいここには福島原発事故の経過とそっくりそのままのことが述べられていたからです。なぜこれほどまでに2つの事故は同じ経過をたどるのか――根本的には世界の原子力ムラの構造は世界共通であり、従って、事故をめぐる経過も必然的に同一となるからです。しかし、それだけではなく、日本政府くらいチェルノブイリ事故から学び尽くした連中は(今中さん、小出さんら一部を除いて)ほかにいないのではないか。だから、3.11以降の日本政府も三大政策[2]を曲がりなりにも着々と実行できた。だとしたら、我々市民も、この老獪にして厚顔無恥の日本政府と同じ位、チェルノブイリ事故から徹底して学ぶ必要がある。

以下は、遅まきながら、七沢さんの「原発事故を問う」を読んでチェルノブイリ事故から学ぼうとした備忘録です。

3、三大政策1つ「情報を隠すこと」の核心が子どもの被ばく情報だった
事故から4ヶ月経った1986年8月25日から5日間、ウィーンで、チェルノブイリ事故をめぐるIAEAの国際検討会議が開かれ、ソ連も参加しました。
というのは、ソ連と欧米の西側諸国とは、チェルノブイリ事故により放射能汚染が世界中に広がり、そのため、各国で原子力エネルギーに対する市民の反感が強まってくることを非常に警戒し、それに対抗することで利害が一致し、共同歩調を取ることにしたのです。ちょうど戦国時代に諸国の大名同士が、各地の民衆による市民革命(一向一揆)に対抗するために支配者同士の連携・共同歩調を取るようなものです。

七沢さんの「原発事故を問う」によれば、この国際会議に提出するソ連の報告書作成にあたって2つの重要な情報が削られました。ひとつは事故の原因である制御棒の構造上の問題について。もうひとつは事故による被害のうち、子どもたちの被ばくに関するデータです(136頁末行~)。
この2つが事故の原因と結果についての最も重要な情報だったからです。なぜなら、それらはもし真実を明らかにされれば他への影響が甚大であり、「事故を小さく見せる」ために必要不可欠の核心的な情報だったからです。
子どもたちの被ばく」を隠すことが事故対策の最重要課題であること、この訓えが福島でも見事なまでに反復されたことはミスター100ミリシーベルトたちの大活躍ぶりでお馴染みの通りです。

4、三大政策1つ「様々な基準値を上げること」の動機は子どもの疎開を阻止するためだった
七沢さんの「原発事故を問う」によれば、事故から3週間も経たない1986年5月14日、ソ連保健省は、被ばく線量の基準をいきなり引き上げました。

(1)、一般人につき、年間0.5レム(=5ミリシーベルト)を100倍引き上げ、50レム(=500ミリシーベルト)
(2)、14歳以下の子どもと妊産婦につき年間10レム(=100ミリシーベルト)

それは、ウクライナ共和国政府が、ソ連政府の意向を無視して、5月9日、キエフの子どもと母親52万人余りの学童疎開を決定したからで、これに対する一種の報復措置として、学童疎開が始まる前日に、ソ連保健省はウクライナ政府宛てに、次の通り、被ばく線量の基準値の100倍アップの「きわめつけの通達」を送りつけたのです。
ソ連保健省は、住民の放射線許容線量について次のような新しい基準を採用した。14歳以下の子どもと妊産婦の場合、年間10レム、一般人の場合は50レムまで許される。それ以下の場合、住民の疎開など特別の措置は取らない。(71頁終わりから3行目)
事実、この恫喝のような通知のあと、ウクライナ共和国でもウクライナ以外の地域でもキエフの真似をして、子どもたちの集団疎開が実施された話は聞いたことがありません。キエフに続く「子どもたちの集団疎開を阻止する」というソ連政府の基準値引き上げの目的は達成されたのです。
この訓えが福島でも反復されたことは、学童疎開の動きが起きる前に先制攻撃として、昨年4月19日、文科省から学校教育の基準値を20倍アップする20ミリシーベルトの通知が出された通りです。

5、なぜキエフで子どもたちの集団疎開が実現したにもかかわらず、日本では実現しないのか。
キエフの52万人余りの子どもと母親の学童疎開が実現したことを知ったとき、なぜ人権もろくに保障されない全体主義国家の、しかも崩壊直前のソ連で実現できて、日本で実現できないのか、不思議でなりませんでした。ウクライナ政府にはよっぽど勇気と覇気があったのに対し、日本政府や福島県関係者は腑抜けだからできないのか。
しかし、七沢さんの「原発事故を問う」を読むと、ソ連も日本もたいして変わらないことが分かります。もしキエフが福島市や郡山市だったらソ連でも学童疎開は実現しなかったにちがいない。或いは、もしチェルノブイリから120キロ離れたキエフが福島第一原発から220キロ離れた東京のような場所にあったらやはり学童疎開は実現しなかったにちがいない。なぜなら、キエフは福島市や郡山市などとはちがって特別な場所だからです。
これについて、事故直後、モスクワからキエフに呼ばれた放射線医学の権威であるレオニード・イリイン博士が次のように証言しています。
私はウクライナの首脳と話していて、彼らがキエフのことばかり心配していることが気にかかりました。キエフよりもその周辺の農村地域の汚染がよっぽどひどかったですから、そちらのの住民保護をまず考えなくてはいけないのに、と思いました。(68頁4行目)
しかし、キエフ以外の街では集団疎開はその後一度も実施されなかった。その理由は首都キエフにはウクライナの政財界の子弟たちが多数住んでいたからで、ウクライナの首脳たちにとっては彼等のことが心配でたまらず、その救済が最優先課題だったからです。そして、それさえ果せばそれ以外の人たちのことは、はっきり言ってどうでもよかったのです。
状況は日本も変わりません。福島市や郡山市と福島第一原発の距離は千代田区から成田や三浦半島になります。もし成田や三浦半島のような場所で福島原発事故が発生したら、首都東京でもとっくに子どもたちの集団疎開が実現したでしょう。東京には皇室をはじめとして政財界の子弟たちが多数住んでいます。日本の首脳は、彼等のことばかり心配し、その救済が最優先課題だからです。しかし、福島市や郡山市には政財界の子弟たちは殆んどいません。だから、首長の子弟たちが自己責任で避難して、それで一件落着としたのです。

6、認識をまちがえた善意の献身が最悪の事態をもたらす――事故直後の犠牲者の殆んどが事故の認識をまちがえた善意の献身者たちで、落命は避けられた人災だった

原発事故が最も恐ろしいのは、事故の「現実が見えない」ことです。私たちは、ふだん、何気なく「現実を見ている」積りになっていますが、それはあくまでも自分でかけていることさえ意識しない「色メガネ」を通して現実を自分流に理解しているだけのことです。しかし、私たちの「色メガネ」では放射能をとらえることはできません。その意味で「放射能は見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒です」(アーネスト・スターングラス博士の青森市講演(2006年3月))。にもかかわらず、放射能事故の「現実が見える」と思った人たちは、そのために命を落としたのです。

 この「現実が見えない」ことを、七沢潔さんのインタビューを受けたチェルノブイリ原発の事故当時の運転員ポリス・ストリャルチュウクは次のように語りました。
できれば思い出したくない記憶です。それは全くひどい夢を見ているようでした。
目の前で起こっていることが、現実の出来事とは信じられなかったのです。(19頁8行目)
 彼が「ひどい夢を見ているよう」だったと語り、「目の前で起こっていることが、現実の出来事とは信じられなかった」と語るのは、一見、普通の火災事故のように見えた「目の前の出来事」に立ち会った人たちがその後、バタバタと命を落としていったからです。
彼らはなぜ死ななければならなかったのか。 その死は避けられなかったのか。もしそうなら、これを前代未聞の悪夢と呼ぶのは無理もありません。

しかし、彼等の殆んどが落命しなくてもよかった、彼らが命を落としたのは、ひとえに放射能事故の認識をまちがえたためであること七沢さんの「原発事故を問う」に明らかにされています。
  
事故当日、チェルノブイリ原発4号炉は。まもなく定期点検修理のために停止されるところで、その際、タービン発電機の改良の成果を確認するための実験が行われる予定でした。以下は、このとき制御室にいた17名の職員です(副技師長ジャトロフが描いたスケッチ。「原発事故を問う」第1章扉図より)。

















制御室の最前列の中央にはユニット主任運転員(任務は冷却水・その循環ポンプの操作)のポリス・ストリャルチュウク、
その左手には原子炉主任運転員(任務は原子炉の反応と出力の操作)のレオニード・トプトゥーノフ、
右手にはタービン主任運転員(任務はタービンの操作)のイーゴリ・キルシンバウム、
これらの後列の中央には4号炉原子炉ユニットシフト長のアレクランドル・アキーモフが座り、後部右手の配電盤の前には、チェルノブイリ原発の副技師長のアナトリー・ジャトロフが実験の推移を見守った。
このとき、ユニット主任運転員のストリャルチュウクとタービン主任運転員のキルシンバウムは28歳、原子炉主任運転員トプトゥーノフは24歳。
真夜中の午前1時23分4秒、実験開始。実験の目的は、地震などで外部からの電源が遮断され、電源喪失した時、タービンの慣性だけで発電し、給水ポンプを動かして原子炉を守ることができるかどうかを確認するための電源テスト--まさに東日本大震災のような大地震に備えての対策でした。
 36秒後の午前1時23分40秒、実験終了。予定通り、制御棒を一斉に挿入する緊急停止ボタン(AZ-5ボタン)が押された。ほどなく、原子炉は無事に停止する筈でした。
しかし、ここから原子炉の暴走が始まりました。 ストリャルチュウクの証言は以下の通りです。

停止スイッチが回されて1,2秒たってからでした。突然大きな衝撃音が聞こえました。はっと思いましたが、制御盤の前にいるほかの人が驚いた顔をしているのに気がつき「きっと発電機の音だよ。こういうフラットな衝撃は心配ない」と声を出しました。(21頁12行目)
しかし、現実は彼の見通しを裏切りました。
けれども嫌な予感がして、部屋から逃げ出そうと歩き出しました。その時に2回目の、今度は非常に大きな力を持った爆発が起こりました。天井や壁が剥げて、かけらが落ち、部屋中、ほこりで霧がかかったようになりました(21頁14行目)。
けれども途方に暮れたのは若い運転員たちだけではなかった。かつて原子力潜水艦の原子炉の技術者として何度も事故に立ち会ったベテラン技術者の副技師長ジャトロフもまた、このとき、「キツネにつつまれたような時間が続いたという」(22頁10行目)。
ジャトロフの証言。
私は最初、発電機のところで何か起こったのではないかと、あるいは制御保護系のタンクが爆発したのでは、と思いました。
そしてしばらくして、原子炉の制御状況を示す表示器を見て、目が丸くなるほど驚きました。制御棒は炉の半分まで降り、まんなかで止まったままで、核分裂の反応性は上がっていたからです。
私はすぐうしろで見学していた2人の見習作業員に、原子炉の真上の中央ホールに行き、そこにいる作業員に手動で制御棒を原子炉に入れることを伝えるよう指示しました。(22頁11行目)
しかし、ジャトロフはこの指示のあと、自分の認識が間違っていたことに気がつきます(制御棒がサーボモーターにつながったまま動かないのであれば、手動でも動かない、と)。2人の見習作業員を呼び返そうとしましたが、2人の姿はありませんでした。この2人は原子炉の破壊された中央ホール(以下の図参照)に入り、「放射線に身を貫かれて、後日死亡」しました。


























しかし、ジャトロフ(のみならずスタッフ全員)はこのあと、またしても認識の間違いをおかします。原子炉そのもの(炉心)が破壊されているとは夢にも思わなかったからです。
 タービン主任運転員キルシンバウムの証言。
こんなこと(原子炉そのものの破壊)は教科書にも運転マニュアルにも、どこにも書いてなかったのです。だからそれまでは、原子炉が崩れるなんてことはありえないとしか思っていなかったのです。(26頁14行目)
 その結果、最優先の対策を次のように考えてしまいました。
冷却水が流失した以上、炉心に注水しなければ、メルトダウン(炉心溶融)という大事故につながってしまう。それだけは避けなければならない、と。
そこで、非常用ポンプのスイッチを入れ、炉心を水で満たそうとしましたが、 非常用ポンプは1台も作動しません。
そこで、ポンプが動かない原因を調べるため、2人の作業員をタービン室へ派遣、さらに2人を手動で非常用冷却装置のバルブを開けるため、中央ホール付近に送り込まれました。
 しかし、水を供給して守るべき炉心は爆発により粉々に吹き飛び、もはや存在していなかったのです。

にもかかわらず、認識をあやまったシフト長のアキーモフ、原子炉主任運転員トプトゥーノフは、当日の朝5時のシフト交代後も4号炉に残り、作業員として原子炉に注水するために冷却装置のバルブを開けに出かけ、大量に被ばくし、24歳の若者のトプトゥーノフは「髪の毛は抜け、放射能汚染水につかった足からは、骨が見えるまで皮と肉がはがれ落ちる」(112頁)ほどでしたが、2週間後、KGBや検察スタッフからチェルノブイリ事故を引き起こした主犯格級の人物として情け容赦ない尋問の中、あいついで亡くなりました。

中央ホールの周辺では煙が充満し、火災が始まり、にもかかわらず、防毒マスクはなく、備え付けの放射線測定器は振り切れて測定不能の状態でした。
放射線測定の担当者は、このときの最大値を毎時3.6レントゲン(1 R = 8.7 mGy、1 Gy = 1 Svとすれば毎時約31mSv)と推計しましたが、しかし現実にはその1万倍近い毎時3万レントゲン(毎時約260シーベルト。そこに数分滞在すれば必ず死に至る)の放射線量でした。
 シフト長のアキーモフ、原子炉主任運転員トプトゥーノフが落命したのは当然でした。
のみならず、この放射線の犠牲となったのが、事故後30分後に駆けつけ、防護服もないまま朝方まで消火活動に励んだ消防隊員でした。

こうした、原子炉の爆発事故の直後に命を落とした人たちの殆どは、、炉心が吹き飛び、大量の放射性物質が放出された事故の現状を正しく認識できなかったために、なおかつ事故を最小限に食い止めるために身を投げ出すという高い倫理的責任感を貫いために招いた人災です。
もし彼らが事故の現状を正しく認識できていれば、命を落とすまでのことはなかった。

ただし、チェルノブイリ原発の事故の現状を正しく認識できなかったのは副技師長ジャトロフたちの落ち度ではありません。チェルノブイリ原発を管轄する省庁(電化電力省)がソ連の原発を管轄するもう1つの奇々怪々の省庁(中規模機械製作省)から、1975年に発生し最近まで隠蔽されていたレニングラード原発事故から学んだ教訓(原子炉の構造上の欠陥)を知らされていなかったからです(その詳細は「原発事故を問う」100~107頁)。

その上、「ウソをウソで塗り固める」という言葉の通り、事故発生の責任は「運転員による規則違反の数々のたぐいまれな組み合わせ」(1986年8月IAEAに提出されたソ連政府の事故報告書)とされ、すべて、原子炉主任運転員トプトゥーノフをはじめとする運転員らの運転のせいにされました。
しかし、真実は
実験が終わるまでは何も起こらなかった。AZ-5(緊急停止ボタン)を回してから出力が上がり爆発した」(シフト長アキーモフ。113頁14行目)
AZ-5ボタンを押すまで何も異常を示すものはなく平穏そのものであった。出力増などの警報が出たのはボタンを押して3秒後のこどである。」(副技師長ジャトロフ)

ソ連報告書指摘の運転員の規則違反の1つ目「制御棒が『反応度操作余裕』が基準値以下で運転」に対しては、
反応度操作余裕が低下していたことも、それでもって運転員が非難され理由にならない。なぜなら、それを直接示す計器はなかったから」(副技師長ジャトロフ)

ソ連報告書指摘の運転員の規則違反の2つ目「予定以下の低出力で実験(電源テスト)をおこなった」に対しては、
低出力での運転は禁止されていたというが、その規則は事故後に作られたものである」(副技師長ジャトロフ)

なおかつ、運転員は事故発生関する肝心な情報は前もって何ひとつ知らされなかったのです。事故の責任を問われた副技師長ジャトロフは自分たちが置かれた状態をこう表現しました。

 火薬庫の上に知らずに寝泊りすることにひとしい107頁

 原子炉の構造上の欠陥を隠し通そうとしたことがソ連国家の構造上の欠陥そのものでした。それはチェルノブイリ事故を発生させ、途方もない惨禍を人々にもたらし、それから5年後、ソ連崩壊・解体を発生させました。チェルノブイリ事故から学び尽くした日本政府も当然そのことを熟知しています。

7、「最も悪いのは放射能を怖がる精神的ストレス」論の起源はベトナム・シンドローム


(1)、国際連帯の茶番劇第1幕(1986年8月ウィーン
1986年8月、事故後4ヶ月足らずで、ウィーンでチェルノブイリ事故をめぐるIAEAの国際検討会議が開かれ、ソ連も参加しました。これはソ連と欧米の西側諸国が、チェルノブイリ事故により放射能汚染が世界中に広がり、各国で原子力エネルギーに対する市民の反感が強まってくることを警戒し、それに対抗することで利害が一致し、「原子力推進体制を守る」という共通の利益のために共同歩調を取ったもので、国際連帯の茶番劇の第一幕でした。なぜなら、報告に立ったソ連代表団長レガソフ(事故から2年目の1988年4月26日自殺)は、事故の原因である原子炉の制御棒の構造上の問題と事故の最大の被害者である「子どもたちの被ばくデータ」を隠蔽した上で(136頁末行~)、事故の原因は36秒もかかった実験について、
運転員たちは早く実験を完了させることを焦るあまり、実験の準備、実行にあたって指示に従わず、実験計画書そのものを無視し、原子炉を取り扱う細心の注意を払わなかった。(138頁13行目)
 このような「運転員たちが犯した危険極まりない規則違反」であると指摘し、他方、事故による被害については、子どもたちの被ばくデータを隠した上で
一連の対策によって住民の被ばく線量を許容限度内におさめることが可能になった(139頁1行目)
と政府の緊急対応の成果を自慢気に披露したのに対し、IAEAの西側諸国は、このウソ八百のレガソフの率直な報告を好意的に受け入れ、ソ連事故報告書を全面的に了承したからです。1987年のチェルノブイリ裁判のとき、被告人尋問で最も激しく罪状を否定した副技師長ジャトロフはのちにこう証言しました。
私にはまったく理解できません。IAEAの会議には、イギリス、フラン ス、アメリカ、日本などの学者たちが各国を代表して来ていたのです。彼らにとっては他人事だったのでしょうか。ソビエト側の発表を故意に信じたのだと思い ます。期待したとおりの説明をソビエトがしたので、西側は願ったりかなったりだったのです(※)。客観的な分析をしたならば、ありえないことです。あのようjな 権威ある専門家会議では許されないことです。(150頁9行目) 
事故の原因は原子炉の構造的な欠陥であり、その責任はそれを知りながら対策を講じなかった人々にある。‥‥1986年のソ連報告書は偽りだらけであり、そうした報告をなぜIAEAが鵜呑みにできたのか理解できない。(今中哲二「チェルノブイリ原発事故原因の見直し」から
(※) ソ連はその崩壊直前に2つの衝撃的な書面・規範を残した。それは憲法9条の制定に比すべく奇跡とも言うべき出来事である。1つがチェルノブイリ住民避難基準の採用。もう1つが、チェルノブイリ事故原因について、それまでの「運転員の操作ミス」を撤回し、「原子炉の設計の欠陥、とりわけ制御棒の構造的欠陥であった」と明記したシュテインベルク報告書の作成である(85頁)。そのため、IAEAは窮地に追い込まれ、事故原因の見直しを迫られたが、あくまで第一に運転員の操作ミスであると譲らなかった。茶番の相手が真実を語り始めたとき、IAEAは耳を傾けるのではなく、用済みとして相手を切り捨てるのである。

 (2)、国際連帯の茶番劇第2幕(1991年5月ウィーン
 今年3月来日したベラルーシの研究者M.V.マリコ氏は、郡山市での講演のあと、次のような話をしてくれました。
 自分たちはチュルノブイリ事故による放射能汚染地図を作成したのに、当時その地図を知っているのは(政府高官以外は)わずかに自分たちの研究所のスタッフ数人だけでした。
 しかし、3年後の1989年春、この汚染地図が初めて新聞紙上に公表され、大きな反響を呼びます。例えば、それまで原発から150キロ以上離れたゴメリ州(当時、白ロシア共和国。現在のベラルーシ)に住む人々はゴメリ州に原発周辺に匹敵する汚染地域が存在することを知ったからです(今中哲二さんの解説を参照)。その頃には、これまで全世界に隠していた「子どもたちの被ばくデータ」について、子どもたちの間に甲状腺障害など現実の健康被害があらわれ始めていました。

しかし、ソ連政府は、「生涯70年間で35レム(350mSv)までの被ばくは許容される」「汚染地域の住民は避難しなくても十分安全である」というイリイン・ソ連医学アカデミー副総裁の見解に基づいて何も手を打とうとしませんでした。

その結果、住民のソ連政府、ソ連の放射能専門家に対する不信は手がつけられないほどに加速しました。困り果てたソ連政府がそこで思いついた打開策は、事故直後に大成功を収めたIAEAとの国際連帯の茶番劇の再演でした。ソ連市民が自国の専門家はもう信用できないと言うのであれば、最後の切り札として国際的な権威に登場してもらい、ソ連市民を黙らせるというやり方でした。
1990年、ソ連政府の要請を受けたIAEAが白羽の矢を立てたのが、核戦争遂行のための研究機関ABCCの日本側代表、ABCCを引き継いだ放影研の元理事長を歴任し、秘蔵っ子ミスター100ミリシーベルト(山下俊一氏)を育て、今年2月に亡くなった重松逸造氏です。

重松氏を委員長とした国際諮問委員会のもとに各国から200人の専門家を集め、国際チェルノブイリプロジェクトを開始し、1991年5月、ウィーンでプロジェクトの報告会が開かれました。その結論は次のようなものでした。
汚染地帯の住民のあいだに、チェルノブイリ事故による放射線による影響は認められない。ソ連政府の出したデータはおおむね正しく、とられてきた汚染対策も妥当である。むしろ「放射能恐怖症」による精神的ストレスの方が問題である。ソ連政府が取る「1平方km当り40キュリー以上の汚染地帯」という避難基準ですら厳しすぎる。(238頁末行)
 この二度目の茶番は公正なる調査結果を期待したチェルノブイリ地元市民と地元政府の失望と不信を買うという成果しかあげることができず、国際的な権威でソ連市民を黙らせようという当初の思惑は崩れ、事態は正反対の方向に進んでいきました。ソ連最高会議は、とうとう、それまでの1平行km当り40キュリー以上という避難基準を15キュリー以上と改め、15キュリー以上の汚染地域住民約27万人全員の避難を決議したのです。
七沢氏のコメント。
政府はそれまで必死に避けようとしていた大量の住民避難にかかる高額な財政支出を、この時ついに負担することになった。(239頁9行目)
しかし、瀕死のソ連はその夏、アル中の党官僚たちによるクーデターとその失敗を経て、12月、住民避難の決議を実行しないまま崩壊・解体します。

(3)、「放射能恐怖症」による精神的ストレスの起源
原発事故後の健康被害の原因として、放射能よりも「『放射能恐怖症』による精神的ストレス」の影響のほうが大きい、という議論があります。思わず、「いまどき、何バカなことを言っているのか」と笑って済せたくなるのですが、そうはいきません。なぜなら、これは疎開裁判で、チェルノブイリ事故との比較検討を最重要な論点として主張している原告に対する被告郡山市の反論の柱の1つになっているからです(平成24年4月17日答弁書14頁(エ))。

そもそも、なぜ、こんな精神論が今なお堂々と幅を利かせているのだろうか。それは、現実に、チェルノブイリでも福島でも、うつ病などの精神的被害の発生が深刻だからです。しかし、その原因は、マスコミに登場する殆どの学者や政治家は「直ちに影響はない」「逃げなくても心配ない」と安全を宣伝しながら、他方で、自らまたは自分たちの家族をチェルノブイリや福島に引越して復興に取り組むような素振りは全く見せず、その口先だけの偽善者ぶりに誰も信用できなくなるという状況に精神的にすっかり参ってしまうからです。

しかし、 「『放射能恐怖症』による精神的ストレス」論を説く人たちは、それは御用学者や政治家が悪いのではなく、放射能を怖がる皆さんひとりひとりの心の持ち方が悪いのだと説きます。そこから導かれる解決策は「放射能を怖がる精神を、怖がらないように悔い改めること。なぜなら、心の持ち方が健康被害の主要な原因であり、これさえ克服すれば健康被害はなくなる」、これに尽きます。

ところで、この精神論はチェルノブイリが最初ではありません。1960年代から、ベトナム戦争に対し、「市民の中で、軍事力という暴力の行使を否定する病的な拒絶反応」が生じたこと」を、ベトナム戦争後遺症(ベトナム・シンドローム)と名づけ、国家の側では、この慢性病を追い払い、打ち負かすための数々の努力が傾けられてきました。 「軍事行動の価値」を重視するという考え方を市民の頭に叩き込む必要がありました。さもないと、なぜ世界のあちこちへ行っては、人を拷問し、殺害し、絨毯爆撃などをする必要があるのか、理解できなくなるからです。

 8以下、未完成。


[2] 「情報を隠すこと」「事故を小さく見せること」「様々な基準値を上げること」

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