今回、スイス・ジュネーブの国連人権理事会に福島の惨状を訴えることを決めたものの、双葉町長の井戸川さんと共に行くメンバーが最後まで決まらなかった。「あなたが行くべきだ」という妻の声に背中を押されて私が行くことになった。パスポートのなかった井戸川さんが途中で迷子になったり、誘拐されないためにもボディーガードが必要だった。
5日外泊したのは親父の介護以来初めてのことで、家族のおかげで彼の命はつながった。帰国して、彼を「ベンジャミン・バトン」のラストシーンのように、2度目の育児を30年ぶりにするような気持ちで、命に対する感情に襲われながら接することができる気がした。
1917年、新潟県佐渡島に生まれた今年95歳の親父は、戦前、生来の人柄と大陸での生活のおかげでお人好しの極限形態みたいだったのが終戦前夜の1ヶ月余りで突然変異を起こし人格が豹変した。それまで特に何も考えない極楽トンボが、1ヶ月で、誰が何と言うとぜったい撤回しない不動の確信を持った反戦平和主義者に変貌してしまった。それまで、満州鉄道の下っ端職員とはいえ、植民地生活の特権の端くれを享受していた彼は、終戦前夜に至っても、大本営発表をうのみにして避難もしなかったふつうの市民だった。しかし、8月9日、ソ連参戦の報と同時に現地招集されて事態が一変した。ろくな装備もないズサンな軍隊としてソ連兵と向かい合う羽目となり、偶然にも命を落とさず終戦1週間後に武装解除を迎えたが、今度はソ連兵に捕まってシベリア抑留になるまいと、ドブネズミのように満州平野を逃げ回る羽目となった。昼間は草原に身を隠し、夜間に行動して、1ヶ月後に中国撫順市に辿り着いた。彼は自分が奇跡的に生き延びたことを、この1ヶ月の体験で知った、そこで見た、未だ語ることもできない、満州開拓民の家族たちの命が無惨に奪われていく光景と共にまざまざと知った。さらに、彼は次の真実を知った――自分は、戦争推進者たちが逃げのびるための「盾(たて)」として召集され、ソ連兵との戦闘の最前線に立たされたのだ。自分はただの兵士ではないのだ、いけにえにされたのだ!
おそらくこのとき、彼はそれまでの自分の無知を恥じ、「無知の涙」を流した。それまで行儀よくしつけられ、学校で社会で大本営発表をうのみにする羊のようにマインドコントロールされた自分のタガが外れて、満州の荒野でドブネズミになってみて、初めて見えてきたものがあった。このとき彼は人間になったのだ。それが、戦争と平和に対する彼のその後の態度を決した。彼は終生この認識を手放そうとしなかった。
競争世界の裏は幾重にも重なり、真実を見通せるものではない。
返信削除意識的ウソと秘密のない共生を可能にする社会を、
具体的に創造したいですね。
今、その可能性の入り口を無条件無差別の
ベーシックインカムに感じています。
福島の人達もこのシステムで
再出発のベースと成る自律への道が開けるでしょう。
かなりの選択肢を増やせることでしょう。