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2021年10月26日火曜日

子ども脱被ばく裁判 控訴審 柳原弁護士の感想 疎開裁判仙台高裁判決と子ども脱被ばく裁判福島地裁判決のよく似た構造


柳原弁護士 官邸前にて


柳原です。


10月22日の子ども脱被ばく裁判の第1回期日には、遠くからも沢山の方が参加して頂き、ありがとうございました。

以下は、当日の裁判に対する私の個人的な感想です。

それを一言で言うと、表題の通り、
事実は足りている。足りないのは愛、そして愛をカタチにした「新しい革袋(人権・予防原則)」

そのことをより強く実感したのは、裁判後の記者会見で、或るジャーナリストが、弁護団の控訴理由書の内容について、
別段、新しい事実を主張しようという訳ではなく、従来の事実関係の下で判決の判断の仕方がおかしいとだけしか主張していないのではないか、
と質問が出たからです。

事実の探求を使命としているジャーナリストにとって、新しい事実の探索、提出に注目するのは当然のことで、せっかく第2ラウンドの裁判をやるんだから、それをやって欲しいという気持ちは痛いほどよく分りました。
しかし、裁判という世界は、事実問題と法律問題の2階建ての構造で出来ていて、両方を検討した末に初めてゴールの結論が導かれます。
弁護団は、6年に及ぶ一審の審理の中で、勝訴するために必要な事実関係の証拠の収集と分析はほぼやり尽くしてきた気持ちがあります。
もちろん、原発事故にまつわる闇はまだまだ数多く存在しますが、この裁判のテーマである「汚染地の子どもたちが避難の権利を有し、救済を求める地位にあること」が認められるために必要な事実関係は揃っていると一審終結の時点では実感してきました(おそらくほかの弁護団の人たちも同様だと思います)。

2021年3月1日 福島地裁前にて 子ども脱被ばく裁判


しかし、今年3月の一審判決は我々の請求を全部蹴っ飛ばしました。
それは、事実関係が不十分であるとか、間違っているとかという理由ではなく、法律問題で我々の主張の変造(我々は安全配慮義務違反と主張してきたのに、主張もしていない人格権侵害を法律問題にすり替えられ)さまざまな屁理屈でもって、国や福島県のやった行為はすべて合法の裁量の範囲内であって違法ではないと結論を引き出す、ただし、その結論にとって不都合な真実(7千倍の学校環境衛生基準問題、311前の安定ヨウ素剤の服用基準見直しの検討過程における重大な問題をはじめとする、私たちが初めて主張した事実や提出した証拠)はことごとく完璧に無視しました。

こんな出鱈目な法的判断だったら、どんな結論もひねり出せるアクロバットのような判決です(だから、法律とは別名、魔法という)。
だから、二審では、(311後のあべこべの日本社会を反映しているのかもしれない)このアクロバットのような判決を正常化させること、これが二審の最大のテーマだと考えました。

その際、正常化にとって必要不可欠な法律問題の第1が人権の主張です。しかもそのためには、人権の「発見」が必要でした。なぜなら、311まで日本政府が安全神話の元で原発事故を想定しておらず、それに対応して、法学者も「原発事故発生時において人々に必要な人権の具体的な内容」を殆ど探求、吟味検討してこなかったからです。
今回、その必要性を痛感したのは、福島県が東雲の国家公務員住宅に避難している自主避難者の追出しを求めて訴えを起こした追出し裁判でした。この訴えに対し、自主避難者の反論として、単なる「権利の濫用」だけではなく、もっと正面から強く反論が必要だということで、吟味検討の中で、「国際人権法に基づく居住権」という人権に着目して、これで勝負に出ようとしたときです。
この経験は、ひとり、避難者の居住権の問題にとどまらず、彼らが安全な環境に避難して生活を再建するために必要なずべてにわたって、人間として扱え!と主張できる人権の主体であることを主張できることを自覚しました。

このような観点から、二審では、人権を正面に据え、ここから原判決の理不尽の極みの意味を明らかにして、理に適った法的な判断を引き出すように、法律問題に取り組んでいくことの重要性を、22日の控訴理由書の要旨陳述の中でも主張しました。

法律問題となるとどうしてもやや専門的になりますが、今、そこがこの裁判にとってとても重要な焦点となっていることを理解してもらえたら幸いです。


以上の詳細は、以下のブログに書きました。ご参考までに。

10.22子ども脱被ばく裁判控訴審第1回期日:事実は足りている。足りないのは愛と愛をカタチにした「新しい革袋(人権・予防原則)」
https://seoul-tokyoolympic.blogspot.com/2021/10/blog-post_24.html


以下は、当日の裁判に対する私の個人的な感想の続きです。

9年ぶりに来た仙台駅から裁判所まで歩きながら、9年前のことがぐるぐる思い出され、そしたら、今年3月の一審判決の構造が、9年前の疎開裁判の仙台高裁の決定と同じ負け方をしたことに気がつき、ハッとしました。
以下、思い出された順に。
仮処分事件の疎開裁判で、9年前の10月の仙台高裁第1回裁判(審尋)のときも裁判前の集会・デモをやり、裁判後の矢ヶ崎さん、松崎さんの講演会をやりました。
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/33790

通常、仮処分事件の控訴審は書面だけで1~2ヶ月で審理終結して決定を出すのが定番だから、疎開裁判の控訴審で仙台高裁に行くことは100%ないと思っていたのが、何がどうしたのか、2012年8月、裁判所から呼び出しが来たので、腰を抜かしました。
https://fukusima-sokai.blogspot.com/2012/08/blog-post_6.html

それは「一審の見直し」をする可能性があるということで、一同、どよめき、その可能性に賭けて、裁判当日に可能なアクションをやったのです。
しかし、いざ裁判所で裁判官と面談すると、裁判官のガードがものすごく固く、何のために我々を呼び出しんか?と途方に暮れるほどでした(とくに2回目は)。
https://ameblo.jp/rain37/entry-11413267458.html
結局、2回目(11月26日)、3回目(1月21日)と3回、裁判(審尋)を行い審理終結し、このとき、裁判所は速やかに決定を出したいという口ぶりだったので、市民の声を発揮する我々に残されたロスタイムは3週間と考え、その間、全力を注ぎました。
https://fukusima-sokai.blogspot.com/2013/01/blog-post_3259.html

ところが、ここで異変が起きたのです。出る、出ると言われていた裁判所の決定がいつまで経っても出なかった。梅のつぼみがほころでも、桜のつぼみが咲いても出ず、5月の連休になる直前にようやく出ました。

2013年4月24日仙台高裁決定を受けて


判決文を頭から読んでいくと、我々の主張をみんな認めている、
「集団疎開」が子どもたちの被ばくの危険を回避する1つの抜本的方策として教育行政上考慮すべき選択肢である。
とまで言っている。それなのに、結論は、
郡山市には子ども達を避難させる義務はない、と。
どうして、こんなまっとうな事実認定からこんな奇妙奇天烈な結論が導かれるのか、キツネにつままれた気分でした。
https://fukusima-sokai.blogspot.com/2013/05/blog-post_3.html

このとき、私は判決はこう言っていると理解しました(添付がそれを解説したリーフレット)。

当時のリーフレット


事実関係は原告の主張通り、低線量被ばくにより子どもたちの生命・健康に由々しい事態の進行が懸念され、子どもたちは危ない環境にいる。
しかし、子どもたちは危ないと思ったら、自分で避難すればよい(それを郡山市は妨害しない)、それゆえ、郡山市には子どもたちを避難させる義務はない。
              ↑
東大話法に匹敵するこの「仙台高裁話法」の基本構造は、事実問題では争わない、しかし法律問題で我々の主張をひっくり返す、というものでした。
              ↑
このとき、私は、判決の法律問題の背景にある哲学は「新自由主義」であり、自己責任の名の下に子どもを危険な状態に放置することは断じて許せないと批判しました。
しかし、今から振り返ると、あの当時、疎開裁判は「憲法裁判である」と口をすっぱく主張していながら、それが総論倒れにとどまり、それ以上に、その論理的な帰結が「郡山市には子ども達を安全な場所に避難させる法的な義務がある」であることを正面から主張して来なかったのに気が付きました。
つまり、
仙台高裁が、子どもたちは自己責任で避難すればよいという自由放任で構わないという非常識なロジックさえも使わせないように、あらかじめ、こちらからそれを封じ込めるに足りるだけの理論的な準備が足りなかったことに、
9年後の今回、法律問題のキーワードとして人権問題を正面から掲げ、単なる抽象論ではなく、具体的な帰結を引き出して論争をすることの重要性を自覚したとき、9年前の至らなさを再発見した次第です。
そして、なぜ、9年前に、人権問題をもっと前面に出して議論できなかったのか、その理由は、私自身の中で、人権とは何か、その意義を何も分っていなかったからです(今なら分っているのかと言うと、そんなことはありません。この9年間で、今でも引き続き考え続けている、永久に取り組み続ける必要があるテーマだと言うことが分りました)

この意味で、今年3月の福島地裁の判決の法律問題に関する、おどろくべき非常識なロジックは、9年前の仙台高裁の決定の非常識なロジックと共通しています。
思うに、その理由は、どちらも、事実問題で、私たちが必要な証拠を準備し、或る程度詰めをしたために、裁判所が被告を勝たせるための方策が法律問題の場しか残されていなかったからだと思います。

とはいえ、裁判は事実問題と法律問題の2階建ての建物です。裁判所は隙あらばいつでも、弱いところから矛盾を突いて、原告の主張を蹴っ飛ばす屁理屈を見つけ出してきます。
なので、引き続き事実問題も手を抜かず、他方で、法律問題が主戦場になることも自覚して、準備に励みたい、はからずも、9年前のリベンジを果たすときが今訪れたのかと、実感しました。

取り留めのない感想で、失礼しました。



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