1月25日(日)、この日ハチ公前の放射能の空間線量は毎時0.20マイクロシーベルト(年間で1.75ミリシーベルト。チェルノブイリなら申し分のない避難権利地域)。
若者、よそ者(外国人)でごった返す渋谷駅ハチ公前で、17時から、2回目のチラシまき、スピーチを行ないました(詳細は-->活動ブログまで)
この日、アクション参加者はひとりひとり、自分の思いをスピーチ(英語でも)しました、ロンドン中心部の巨大公園ハイドパークの一角にある誰もが演説できるスピーカーズ・コーナーみたいに。
17世紀のイギリスの市民革命以来、民主主義には2つの考えがありました--ひとつは、民主主義は「一握りのエリートのものであり、無知な大衆はエリートにおとなしく管理されるべき存在」だと。
もうひとつは、それとは正反対の、 民主主義は「一握りのエリートのものでなく、たとえ今すぐ完全な実現は不可能でも大衆全員のものであり、それに向けて歩み出すべきである」と(→チョムスキー「メディアコントロール3」)。
この日のアクションはささやかでも、民主主義は私たち全員のものであることを実行したものです。
人命尊重第一を口にする日本政府は、汚染地に住むことを余儀なくされている国難の子どもたちを救おうとしないのは間違っている--これについて、自分も一言喋りたいという人たちは、誰でも飛び入りスピーチ歓迎です。
17世紀、発明されたばかりの活版印刷術(当時のインターネット)による出版物で、すべての特権階級に対して、異議申し立てを行なう民衆の運動が活発になった時、特権階級の人たちはこう嘆いたそうです--彼らの影響で、民衆は詮索したがり、増長し、規則に従う謙虚さを失ってしまうだろう。
政府もマスコミも正しい情報を流さず、正しい政策が実現されない時、大衆が自ら異議申し立てをして、正しく詮索し、正しく増長し、正しく規則に従う謙虚さを失うとしたら、これは素晴らしいことだ。
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