2023年4月4日
脱被ばく実現ネット
坂本龍一さんは、
福島原発事故は国難であり、
汚染地の子どもたちの避難は国家的事業であることを
誰よりも理解していた一人として、この国家的事業の実行を求める「ふくしま集団疎開裁判」に無条件で賛同しました(※1)。
坂本龍一さんは、
「ふくしま集団疎開裁判」勝利とこの国家的事業実現を求める新宿デモに何度も呼びかけ人、賛同人となり、以下の賛同メッセージを寄せてくれました(※2)。
「被曝から身を守ること、特に子供たちを被曝から守ることは、人間としての最低の権利です。」
しかし、坂本龍一さんが願った、人間としての最低の権利である「被ばくしない権利」は未だ実現せず、
その権利実現に向けての過程で、彼は志なかばにして逝きました、
私たちは坂本龍一さんが生前、私たちのアクションに寄せてくれた惜しみない激励、協力に深く感謝し、
亡くなる最後の最後まで、人間らしく生きる希望を求めてやまなかった坂本龍一さんの遺志を継ぎ、私たちもまた、いかなる暗黒が行く手をさえぎろうとも、人間としての最低の権利である「被ばくしない権利」を実現するまで取り組みをやめないという決意を新たにし、
この決意を彼の霊に捧げたいと思います。
(※1)ブックレット「いま子どもたちがあぶない」裏表紙
(※2)
●原発事故から5年 福島も関東も危ない! 放射能から 子どもを守ろう! 2016.3.5(土)新宿デモ
●第7回新宿デモ :2016年10月22日(土)
●2017.11.11(土) 第9回新宿デモ 子どもを被ばくから守ろう! 家族も、自分も!
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以下は、脱被ばく実現ネットのメンバー一人一人の坂本龍一さんへの追悼文です。
救世主&朋輩 坂本龍一
柳原敏夫
私が初めて社会的な裁判に関わったのは2005年5月、新潟県上越市で、元農水省の研究機関が、日本で最初の遺伝子組換え稲の野外実験を、地元農民・市民の猛反対を押し切り強行しようとしたので、実験中止を求めて裁判に訴えた時だった。遺伝子組換え作物の危険性を正面から問う、日本で最初の裁判だった(禁断の科学裁判)。だから経験者もゼロ、先例もゼロ。バイオのバの字も知らない癖に、うかつにも「やります」と手を挙げたため、田植えまでの2週間までに訴状を作成することが私の至上命題となった。誰の目にも不可能は明らかだった。ところがその窮状を前にして救世主が現れた。それが坂本龍一さんだった。窮状に見かねた彼は
「よかったら知り合いの分子生物学者の方を紹介します」
と申し出てくれた。地獄で仏に会うとはこのことかとお願いした。その仏が福岡伸一さんだった。福岡さんの鮮やかな手ほどき、指導で、約束の田植え前に訴状を完成でき、裁判がスタートできた。これが私のライフワーク(バイオテクノロジー批判)のスタートを切れた瞬間だった。
そのとき、福岡さんは私を引き合わせた坂本さんにこう尋ねた。
「ところで、坂本さんと柳原さんとの接点はどこにあるのでしょうか?」
坂本さん曰く、
「さて、接点は、、、、接点は柄谷行人という人ですね~。」
坂本さんと私が知り合ったのはそこからさかのぼること6年前。1999年の或る日、「著作権&リーガルクリエーター」という私のHPを見たといって坂本さんからいきなりメールが来た。そこには「プロフィールを拝見しました。かなり変わった経歴の方だと思いました」旨が書かれていた。私もまた、見も知らない人間にそんなメールを送りつける彼をかなり変わった人だと思った。
当時、私は自分の仕事に飽き飽きしていて、ベンゴシとかいった手垢にまみれた何のインパクトも励ましも与えない言葉に代えて、リーガルクリエーターといった別の言葉で自分の仕事を再定義しようと考えていた。奇しくも坂本さんも、アーティストという手垢にまみれた言葉に代えて、インディーズ、アソシエーション、協同組合といった別の言葉で自分の仕事を再定義しようと考えていた。
ちょうどその頃、思いがけない事態が発生した。それが雑誌「群像」99年4月号に載った柄谷行人「トランスクリティーク」最終章だった。それを読み、私は、それまでのように、著作権法の欺瞞性を単に笑うのではなく、著作権法が陥っている病理現象を根本的に克服する理論的な方向性を見出した。それが生産‐消費協同組合を中核とする、クリエーターに開かれた著作権システムの構築だった。
具体的には、当時、柄谷さんが提案した生産協同組合(著者と編集者たちのアソシエーション)をめざした出版社「批評空間社」の設立だった。私がその設立手続を担当し、坂本さんがその協同組合員として参加した。ちょうどその頃、柄谷さんは「交換様式」という観点から新しい市民運動「ニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント(NAM)」を提唱し、そこに坂本さんも参加。私も協同組合の法律部門の担当者として朽木水のペンネームで参加した。坂本さんが朽木水が私だと知った時のことは今でも鮮明に覚えている。ビックリした彼はさっと手を差し出し、私の手をがっちり固く握りしめた。このときの彼の子どものようなはしゃぎようと手のぬくもり。それは彼が私にくれた最高のプレゼントだった。
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