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2014年8月8日金曜日

【投稿】(第二次疎開裁判への抱負)幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました(黒岩 康)

                                                 東京  黒岩 康
多くを語る必要はない。
 次に引く「遺書」が福島の人々が育んできた家族関係を語って余りあるからである。それは、1968年1月9日、「東京オリンピック」マラソン3位ランナー円谷幸吉によって故郷・福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)の家族に向けて書かれた。
父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。
  敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
  克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
  厳兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅうございました。
  喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。
  又いつも洗濯ありがとうございました。
  幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。
  モンゴいか美味しゅうございました。
  正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、光栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
 正月・故郷で受けた歓待。そしてその場に居合わせた両親、兄弟、そして甥・姪らの顔々。
三十一人の名前。十一の食物。それは、〈幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。〉─この一語を導き出す為の序詞として機能する。
そこに表現された家族的紐帯とその暖かさ。そしてそこへ帰れなくなった者の精神的距離。
 ところで、現在、何故・円谷幸吉なのか?
 自死を前にして、かれが万感の思いを託して書いた〈幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました〉の一語を現在・福島に住む多くのご家族、又は避難を余儀なくされているご家庭に送り届けなければならない!と思うからである。そして小さな十七人の子どもたちに〈立派な人になって下さい。〉と言えたこの時代の青年(大人)の純心をある羨望の思いで眺望せねばならない現実を知るからである。
 2011.03.11.福島第一原発事故は、川端康成に、三島由紀夫に、沢木耕太郎に"哀切"と言わしめたこの「遺書」の世界をことごとく破壊してしまっていると言わざるを得ないからである。
 だから、この現実を隠蔽する如何なる政策(思惑)に対しも、今は率直にNon!と言わざるをえない。「子ども脱被爆裁判」とは、その意味で円谷幸吉が帰ろうとして帰れなかった家族的温もりへの帰還(奪回)を目標に戦われる裁判である、と考える。

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