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告知 ①官邸前抗議 1月19日(日)15時~15時45分

2024年12月18日水曜日

20241219 官邸前抗議行動の補足 なぜ司法は「理由を示してなんぼの世界」なのか 

           ピタゴラス(ローマカピトリーノ美術館

12月19日の官邸前抗議行動で、子ども脱被ばく裁判の11.30最高裁棄却決定に対する抗議声明の中で、「司法は理由を示してなんぼの世界だ」と述べました。しかし、なぜ司法は「理由を示してなんぼの世界」なのかその理由まで述べる時間がありませんでした。以下、柳原からそれについての補足です。

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1、袴田事件の奇跡の逆転、その大前提

今年10月、逮捕から58年かかって無罪が言い渡された袴田事件。当初、地裁、高裁、最高裁と有罪判決が相次いで出され、第一次の再審請求も
地裁、高裁、最高裁で棄却。もう無理かと思われたその後、第二次の再審請求で紆余曲折の末、逆転の再審開始が認められて、無罪となった。
ところで、このものすごい紆余曲折を経ながらも(ウィキペディアの解説)、
奇跡みたいに有罪が無罪に覆えされた根底には、ひとつの大前提がある。それは、袴田事件の有罪判決や再審請求の棄却決定がちゃんと結論の理由を示す「証明」の体裁を取っていたことである。もしも、袴田事件の有罪判決らが、子ども脱被ばく裁判の最高裁決定のように、結論の理由を示す「証明」がなにもなかったなら弁護団はどんなに頑張っても無罪を勝ち取ることは不可能だった。なぜなら、有罪判決や再審請求の棄却決定には、曲がりなりにもその結論の理由を示す「証明」が示されていたから、これに対する「反証」を出すことも初めて可能になった。つまり「証明」の体裁を取ることによって、そこに示された「証明」に対して感情的な批判ではなく、科学的、法論理的な批判もまた、初めて可能となり、その結果、袴田事件のように、最初に示された「証明」がのちに否定されることが可能になった。

2、近代司法の本質的特徴

これが近代の司法が保持している最も重要な特質である「結論を導く理由を示す『
証明』」という判断枠組み。これを失ったとき、司法は司法であることを止める。司法の自殺=内部崩壊である。袴田事件の有罪判決は「結論を導く理由を示す『証明』」という判断枠組みが維持されていたからこそ、連戦連敗だった袴田弁護団も、じわじわと、有罪判決の「証明」の問題点を指摘し、それを打破する「反証」に出て、最後に、有罪判決の理由を示す「証明」を覆えすことができた。

しかし、子ども脱被ばく裁判の最高裁決定には結論の理由を示す「証明」がなにもない。つまり、「結論を導く理由を示す『証明』」という判断枠組みが完全に失われている。だから、弁護団は、たとえ民事の再審は無理だとしても、将来の同種の事件を念頭に置いて、最高裁が示す「証明」の問題点を指摘し、それを打破する「反証」に出るという積極的な判決批判を行なうことができない。その結果、弁護団は、将来の同種の事件を念頭に置いて、袴田事件の弁護団がやったように、最高裁決定の理由を示す「証明」を覆す積極的な準備すらできない。つまり、この10年間の子ども脱被ばく裁判で、原告側が心血を注いで追及してきた国と福島県の責任問題について、最高裁は自らの判断を示さないことにより、理由を明らかにしないまま国と福島県の責任を求める原告の主張を退けるという形で国と福島県の責任問題にいわばフタをしたのだ。それは、弁護団を始めとして世の中から反論、批判、反証の余地を与えない形で国と福島県の責任問題を封印した。

これはもはや「司法」ではない。政治的決着である。昔から、最高裁は政治問題には介入しないのだという司法消極主義を採ってきた。しかし、今度ばかりは司法の大前提である「証明」を放棄することを通じて、実は露骨に政治問題に介入して、政治的に大貢献した。これもまた、最高裁の伝統的立場である司法消極主義に真っ向から反する。アウトである。

司法が「人権の最後の砦」と称されるのは別に、司法を単に持ち上げているからではない。司法がその判断を示すにあたって、人権を尊重せずにおれないような判断の枠組みを採用しているからであって、その筆頭が「結論を導く理由を示す『証明』」の提示だ。司法がその「結論を導く理由を示す『証明』」という判断の枠組みをみずから放棄したとき、それだけで司法は「人権の最後の砦」を放棄したにひとしい。それは司法の自殺である。

3、近代司法の「証明」と近代科学の「証明」の表裏一体

実はこの近代司法の「証明」の判断枠組みは、単に司法内部だけの哲学、思想ではなく、近代社会の本質的特徴と深く繋がっている。それが、近代社会の幕開けとなったガリレオ、ケプラー、ニュートンらに始まる 近代科学の「証明」の登場であり、この「証明」の精神が政治の世界に最も色濃く反映した分野が司法(裁判)だった。近代の司法の誕生は近代科学の誕生抜きにはありえない。

それゆえ、近代司法の「証明」の意義を考える上で、近代科学の証明の意義を参照することが不可欠である。世界三大数学者のひとりとされるガウスが「数学は科学の女王である」と述べたように、近代科学の証明の精神は数学の「証明」に負うところが大きい。その数学の「証明」について、数学者の遠山啓は次のように言っている。

直角三角形に関するピタゴラスの定理は経験的には既に古代エジプトで知られていた。しかし、ピタゴラスが偉いのはそれを証明してみせたことである。証明するまでは、たとえどんなに偉い王さまであろうともそれを主張することは許されない。他方、たとえどんな馬の骨でも証明さえできれば認められる。これが数学そして科学の精神である。」 

つまり、数学の世界ではどんな権力や権威があろうとも、「オレがそう決めたんだからそうする」という振る舞いが許されず、あくまでも「証明してナンボの世界」に従うしかなかった。その反面、どんな馬の骨でも無名で無力であろうとも、「証明」さえやってのければ、それが受け入れられる。数学とはこの「証明」が支配する世界。

この「証明」の精神に従うのなら、司法も、或る主張の理由について、原告がどんな馬の骨でも、どんなに無名で無力であろうとも、「証明」さえやってのければ、最高裁もそれが受け入れざるを得ない。それは私自身、かつて著作権裁判で経験してきたことだ。

だとしたら、子ども脱被ばく裁判の最高裁決定は、「証明」抜きで結論を下したもので、それは上記の「証明の精神」から逃避し、「オレがそう決めたんだからそうする」と権力と権威にすがりついたものにほかならない。それは近代司法の出自=原点を自ら自己否定したもので、だからそれは司法の自死、自壊というほかない。

だから、最高裁は、「証明してナンボの世界」の「司法」が存在すると信じて提訴した原告の子どもらに対し、真っ先に、彼らの信頼を裏切ったことに対し、謝罪すべきだ。

それが出来ないなら、自ら近代司法の出自=原点を葬り去った最高裁は死亡により司法からとっとと退場すべきである。死亡した最高裁に代わって、近代司法の出自「証明」の精神を維持する覚悟を持った新たな最高裁を、我々市民が自ら生成するという用意がある。それが市民立法を準備している市民のもう1つの取組み「市民司法」である(この文、続く)。






 

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