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2011年12月19日月曜日

「却下」決定に対するコメント(2)

以下は、「却下」決定に対する弁護団の柳原敏夫の私見です。

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今回の判決(決定)は、次の通り、民事裁判の基本原則を踏みにじったものです。通常ではこのようなことはありません。なぜそのようなことが起きたのでしょうか。それはこのよう重大な違反をしない限り子どもたちの申立てを斥けることが不可能だったからです。その意味で、これはなりふり構わず、子どもたちの命を切捨て、彼等の人権を蹂躙した、永遠に弾劾されなければならない判決です。

1、「申立てざる事項につき判決なし」の原則違反
もともと民事裁判は市民の権利を保護するための制度ですので、民事裁判を利用するにあたって、裁判を起こすかどうか(訴訟の開始)、起こしたとき、どういう内容の裁判を起こすか(訴訟の範囲)、起こした裁判を終了するかどうか(訴訟の終了)については、裁判所ではなく、当事者にそれを決める権限を与えています。その結果、当事者が裁判を申し立てない事項について、裁判所が判決をすることは許されません。これは民事裁判の基本原則です(処分権主義)。近代の裁判制度は、当事者は、争点について裁判の審理の中で自らの言い分とその裏付けを提出して、それを踏まえて裁判所に判断してもらうという原則を取っています。従って、もし裁判所が当事者が申立てをしていない事項についていきなり判決を下したら、それは当事者は言い分を主張する機会を何も与えられないままいきなり判断が下されること、つまり「不意打ちの裁判」が行われることを意味しますから、憲法で保障された「裁判を受ける権利」(=市民の権利を保護するための権利)を当事者から奪うことになるので、許されないのです。これは誰でもすぐ分かるコモン・センスです。

しかし、16日の判決ではこの点で異常事態が発生したのです。なぜなら、私たちの申立てはあくまでも「14名の子どもたちの避難」であるのに対し、裁判所はこれを「郡山市の全ての小中学生(しかも彼らには疎開するしないの選択の自由が与えられず、一律に強制的な)の避難」であると申立ての内容をすり替えてしまい、その上で、そのような申立ては認めれられないと判断したからです。
疎開裁判は過去に前例のない裁判なので、当初、私たちは形式的な理由で門前払いされることを最も危惧しましたが、いざふたを開けたら、求めてもいない別の申立てを無理矢理作り上げられて、その挙句に却下されるという、門前払いではなくて門前ちがいの目に遭いました。それは刑事裁判になぞらえれば,Aという人の犯罪を裁く裁判で、裁判所が勝手にBという別の人の犯罪を裁く裁判だとすり替えて判決を下すようなものです。しかも、7月の審理の中で私たちは「郡山市の全ての小中学生の避難」を求める裁判ではないことを裁判所にきっぱりと申し上げました。裁判所は目の前で聞いていたにもかかわらず私たちの申立てを無視して、別の申立てに仕立てあげてしまったのです。これは民事の冤罪裁判であり、重大な誤判というほかありません。

2、証拠裁判主義の原則違反

判決の理由となる事実の認定は証拠によらなければなりません。かつて、証拠によらず恣意的な裁判がまかり通っていた暗黒裁判に対する反省から近代の裁判制度の大原則とされたものです(証拠裁判主義)。従って、裁判所は証拠に基づかないで事実を認定することは許されません。そして、民事の裁判で事実認定の基礎になる証拠とは当事者が自分たちの言い分を裏付けるために提出された証拠資料のことです。従って、裁判所は裁判に提出された証拠資料に基づいてのみ判決の理由となる事実を認定しなくてはならず、それ以外の資料に基づいて事実認定することは許さません。もし当事者が裁判に提出された証拠資料以外の資料に基づいて裁判所が勝手に事実を認定したら、当事者はその資料について何も批判・反論する機会も与えられないままいきなり判決の理由となる事実が認定されることになり、つまりこれも一種の「不意打ちの裁判」が行われることを意味し、憲法で保障された「裁判を受ける権利」を当事者から奪うことになるので、許されないのです。これもまた見え透いたコモン・センスです。

しかし、16日の判決ではこの点でも異常事態が発生しました。私たちは学校設置者の郡山市に子どもたちを避難させる義務が発生するのは「空間線量が年間1mSvを超えたとき」だと主張したのに対し、裁判所は「100ミリシーベルト未満の放射線量を受けた場合の癌などの晩発性障害の発生確率に対する影響については,実証的に確認されていない」(16頁(6).以下、本件事実といいます)と事実認定し、だから「空間線量が100mSv以下のとき」には郡山市に子どもたちを避難させる義務は発生しないとしました。しかし、裁判所の判断を左右するこの決定的な事実となる本件事実について、申立人はもちろんのこと相手方の郡山市も裏付けとなる証拠を全く出していません。このような最重要で大論争になる事実について、裁判所は全く証拠調べもせずに、いきなり判決の中で認定しているのです。私どもの開いた口がふさがらなかったのは当然です。

これに対し、裁判所はきっと「それは民訴法179条の顕著な事実だから、証明を要しない」と釈明するのでしょう。しかし、証拠裁判主義の例外である「顕著な事実」とは「裁判官が明確に知り、少しも疑念をさしはさまない程度に認識する事実」(三ケ月章「民事訴訟法」433頁)のことで、その具体例とは「歴史上有名な事件、天災、大事故、恐慌等」(同上。新堂幸司「新民事訴訟法」473頁)のことです。本裁判で、申立人は、「空間線量が100mSv以下のとき」でも、重大な晩発性障害の発生が予測されることをチュルノブイリ事故との対比の中で実証的に確認できると、その裏付となる証拠をいくつも提出しました(矢ヶ崎意見書〔甲49〕第1章。松井意見書〔甲72〕第2章。甲64の論文など)。いやしくもそれらの証拠資料を一度でも目を通した者なら、本件事実について、その後も「少しも疑念をさしはさまない程度に認識」を維持することは到底不可能です。最低でも、判決の行方を左右する最重要な事実を果して証拠調べもせずに認定してよいかどうか証明すべきです(公知であることの証明)。

裁判所は、証拠資料である矢ヶ崎意見書・松井意見書などを読んでいながら、この最低限度の証明すらせずに判決でいきなり本件事実を認定したのは、申立人からすれば、判決の行方を左右する最重要な事実について一度も主張・立証する機会も与えられずに、申立人の申立てを斥けられたものであり、「不意打ちの裁判」によって、憲法で保障された「裁判を受ける権利」を奪われたというほかありません。これでは近代以前の中世の暗黒裁判に逆戻りしたのも同然です。

この中世の暗黒裁判によって誰が最も被害を蒙るかは言うまでもありません。次の魯迅の言葉を引用するまでもなく、命を尊ぶことをやめない限り、私たちはこの判決が破棄されるまで永遠に弾劾し続けるでしょう。
(文責 柳原敏夫 2011.12.18)

いかなる暗黒が思想の流れをせきとめようとも、いかなる悲惨が社会に襲いかかろうとも、いかなる罪悪が人道をけがそうとも、完全を求めてやまない人類の潜在力は、それらの障害物を踏みこえて前進せずにはいない。」魯迅「随感録」の生命の道(竹内好訳・ちくま文庫「魯迅文集3」)

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