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2011年12月30日金曜日

「愛子さま」は疎開しないだろうか

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異議申立にあたって、1つだけ感想を述べます。

疎開裁判をやる前からずっと疑問だったことは、福島市や疎開裁判の被告となった郡山市は福島第一原発からほぼ60キロ圏内ですが、もし都内から60キロ圏内の場所で福島第一原発と同様の事故が発生したなら東京の小中学生の扱いはどうなっただろうか、ということです。
「愛子さま」は間違いなく避難したでしょう。天皇の直系で二親等の皇族を、今の郡山市(汚染マップ参照)のようにチェルノブイリ避難基準で強制的に避難させられる移住義務地域に住まわせておくわけには到底いかないからです。
また、都内には元官房長官ほか政財界の子供たちが数多く住み、または通学していますから、彼らもまっさきに避難したでしょう。なにしろ年間1mSvだけでも「毎秒1万本の放射線が体を被曝させるのが1年間続くもの」(矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授)ですから、毎秒5~20万本の放射線の被ばくが1年間継続する年間5~20mSvのような強制移住地域で自分の子供を教育させておくわけにはいかないと正しく認識する政財界の人たちが自分の子供を避難させるのは当然だからです。
その結果、政財界の子供たちが通っている有名私立小中学校も学校ごと疎開せざるを得なくなるでしょう。
そしたら、私立が疎開するのに公立の小中学校はなぜ疎開しないのか、という問題が議論になるでしょう。
そのとき、ソ連崩壊直後の混乱の中で、ロシア、ウクライナ、ベラルーシのような貧しい国ですらできた集団避難が経済大国の日本でなぜできないのか?60年前、日本が人権保障に最も薄く経済的にも最も困窮していた軍国主義末期の時代ですらできた集団疎開が、基本的人権の保障を基本原理とする経済大国の今日においてなぜできないのか?という議論になるでしょう。その結果、東京では、チュルノブイリ周辺国や軍国主義末期の日本のときのように集団疎開が実現したにちがいない。

であれば、なぜ、それが福島県で実現できないのか、不思議でならない。
チョムスキーによれば、偽善者とは「他人に対して自分が適用する基準を、自分自身に対しては適用しない人間のこと」です。東京と福島で扱いを異ならせる政府と自治体は偽善者ということになります。
のみならず、「ふくしまのこどもたちは死ね」と宣言するにひとしい不条理極まりない差別です。
それは基本的人権の保障を基本原理とする国において政府と自治体の手で行われた「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為」(人道に対する罪)に該当する集団人権侵害行為です。
それは、国際刑事裁判所によって裁かれなければならない「国際法上の犯罪」を意味します。

そのような異常事態に対し、この人権侵害の暴走にストップをかけるのが「人権の最後の砦」である裁判所の本来の任務です。しかし、今回、裁判所は、政府と自治体の人権侵害の暴走をストップさせるどころか、その反対にこれにお墨付きを与えたのです。その結果、国際刑事裁判所の被告席に並ぶ席が増えました。

政府と自治体と裁判所が、こういう無気力・無関心・無責任で機能不全に陥っているとき、これまで、人類の歴史はどういう決着をつけてきたでしょうか。それは「退場」です(今日風の言い方をすれば「廃炉」です)。そのことは、近代の人権宣言の中にはっきりと表明されています。

政府は人民、国家または社会の利益、保護および安全のために樹立される。いかなる政府も、これらの目的に反するか、または不十分であると認められた場合には、社会の多数の者は、その政府を改良し、変改し、または廃止する権利、いわゆる革命権を有する。この権利は、疑う余地のない、人に譲ることのできない、また棄てることもできないものである。」(米国ヴァージニア憲法3条)

そして、この廃炉のあとに来る、きたるべき紛争解決機関が、「愛子さま」も福島の子どもたちも人間としてひとしく人権が尊重される、普遍的な原理に立脚した「市民の、市民による、市民のための市民法廷」です。

その最初の一歩を私たちは、勇気を奮って歩み出すことにしました。それが来年開催が決まった、疎開裁判の世界市民法廷の設置です。
全世界からの注目と支持に恥じない世界市民法廷を開催する決意です。皆さまの注目をお願いいたします。
(弁護団 柳原敏夫)

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