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2012年2月20日月曜日

2.26世界市民法廷の予告編2:子供たちの倫理「それは僕たちにとって『ちょっとのちがい』なの」

あなたの評決が子どもたちを救います。まだの方は今すぐ-->こちらから


去年の9月19日、ふくしまから次の声が届けられました(福島から あなたへ)。
3.11・原発事故を境に、その風景に、目には見えない放射能が降りそそぎ、私たちはヒバクシャとなりました。‥‥
大混乱の中で、私たちには様々なことが起こりました。
すばやく張りめぐらされた安全キャンペーンと不安のはざまで、引き裂かれていく人と人とのつながり。‥‥
そして、今。半年という月日の中で、次第に鮮明になってきたことは、
・真実は隠されるのだ
・国は国民を守らないのだ
・事故はいまだに終わらないのだ
・福島県民は核の実験材料にされるのだ
・ばくだいな放射性のゴミは残るのだ
・大きな犠牲の上になお、原発を推進しようとする勢力があるのだ
・私たちは棄てられたのだ


すばやく張りめぐらされた安全キャンペーンの最大のものは100ミリシーベルト問題です。
しかも、耳をすましたら僕たち子供には、2つの声が聞こえてきました。
「100ミリシーベルト以下は影響ない・心配ない」
「100ミリシーベルト以下は被ばくによる健康障害を証明するデータはない」

その声は同一人物から発せられたときでも、時と場所によって、巧みに使い分けられていました。
一方は、ふくしまの市民に向けての一般大衆の場所で、他方は、専門家、有識者に向けての特殊な場所で。

でも、どうして、そんな使い分けをする必要があるんだろうか?
その使い分けって、いったい、何んだろうか?
僕たち子供にも分かるように説明してほしい。

すると、どこかから、こんな声が聞こえてきます。
「いや、どっちもたいした違いじゃない。同じようなもんでしょう」
「ちょっとのちがいだから、時と場合によって、ついどっちの言い方も出てしまうだけさ」

でも、そうなの? 本当に、それは『ちょっとのちがい』なの?

「100ミリシーベルト以下は影響ない・心配ない」って、安全(白)だ、と言うことです。でも、
「100ミリシーベルト以下は被ばくによる健康障害を証明するデータはない」って、「安全(白)だ」じゃない。単に、安全か危険か分からない(灰色だ)と言っているだけです。
ということは、ひょっとしたら危険かもしれない、あとから大変な病気になるかもしれない、最悪の場合には命を落とすことがあるかもしれないと言っているのです。

それが僕たち、ふくしまの子供たちにとって灰色の意味です。
地獄に落ちるかもしれないという分かれ道の意味です。

どうして、これが安全(白)と『ちょっとのちがい』なんですか?

安全キャンペーンのために、はるばるふくしまにやってきた人は、自分の家族や子どもは安全な場所に置いてきたから、安心して『ちょっとのちがい』だなんて、言えるのではないですか。

科学者の良心と倫理を持った人なら、正しく次のように言ってほしい。
(1)、「100ミリシーベルト以下は影響ない」と「100ミリシーベルト以下はデータはない」とは天国と地獄を隔てるくらい、ちがう意味です。
(2)、だから、両者を『ちょっとのちがい』だとして振舞うのは子供たちを地獄に突き落とす犯罪的なことです。

※参考 今中哲二「“100 ミリシーベルト以下は影響ない”は原子力村の新たな神話か?

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