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2013年1月13日日曜日

それでも、伝えたい福島の親の声:どんな犠牲を払って自主避難したのか(2)

はじめに:なぜ、それでも、福島の親の声を伝えたいのか->こちら

続いて、原告の親ではありませんが、郡山市から静岡県富士宮市に自主避難した長谷川克巳さんが、どのような犠牲を払って自主避難を敢行したのか、率直に、胸の内を語ったものです。

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自主避難について
長谷川克己(はせがわかつみ) 
1、略歴
昭和411222日、静岡県御殿場市生まれ(45歳)。
父親の転勤、自らの進学、就職にて関東各地を転々とした後、平成1511月、仕事の関係で福島県郡山市に移住。平成1612月、郡山生まれ郡山育ちの女性(現在の妻)と結婚。平成1712月に長男を儲ける。妻の親族と共に郡山市に永住予定であったが、平成233月の福島第一原発事故での放射性物質の拡散による子供の健康への被害を危惧して、同年811日、静岡県富士宮市に自主避難。尚、福島在住時に妻が身篭った子供は平成242月に無事出産。現在、自主避難した静岡県富士宮市にて起業し、平成246月より小規模老人デイサービス事業を運営中。家族は妻(36歳)、長男(6歳)、長女(9ヶ月)の4人家族。

2.自主避難への決断
経済の「復興」を目指す福島にありながら、「子供の健康を守る」との予測困難で不確定要素を多分に含む理由で、自主避難に踏み切るには大きな覚悟を必要としました。また、経済的にも取締役とは名ばかりで蓄えも微々たるものでありました。しかし、妻と何度も夜を徹して話し合った上の結論は、「職場を捨てたと言われても」「地域を捨てたと言われても」「人としての信頼までも捨てたと言われても」「子供だけは絶対に捨てまい」このことを覚悟し、誇りをもっての避難でありました。
健康被害は甲状腺癌のみに留まらず、心臓病をはじめ、果ては慢性的な倦怠感などあらゆる病状を懸念しました。また、数年後に健康被害が出た場合、譲って国が賠償を施したとしても、一度損なわれてしまった子供の健康が元に戻るわけではありません。この子の健康に留まらず孫子の遺伝子までもが脅かされているのです。このことに何人たりとも責任など取れる筈もありません。
更には、「もし数年後、誰一人として被害が出なかった場合はどうするんだ」との問いに対しては、上記の通りの「一度損なわれてしまった子供の健康が元に戻るわけもなく、孫子の遺伝子までもが脅かされている」とのリスクを天秤にかけていることを考えれば、問い自体がナンセンスと考えます。それでも敢えて答えを探すとすれば、「誰一人として健康被害が出なくて本当に良かった」と思うのみであり、その時も私たち自主避難者は、自分がとった行動に誇りを持ち続けていることでしょう。

3、私が自主避難に踏みきった背景
昨年811日、家族で静岡県富士宮市に自主避難しました。私の場合は、以下のことを犠牲にして避難しました。
1.                介護事業を運営する会社にて創業からの取締役ありながら、従業員、利用者、また、震災により発生した多くの問題を残したまま退職しました。
「責任を放棄するのか」との周囲からの目は大変辛いものがありました。
2.                子供の幼稚園のPTA会長をしておりましたが、一番大切な時期に任期途中で退任しました。同年代のお子様を抱える親御さんの心配を傍目にしての退任は、同じ親として仕事以上に辛い思いでありました。
3.                妻の親戚一同が、先祖代々の「郡山人」でありました。家内の実家の後を継ぎ、知的障害者である姉の面倒をみることを了解しての結婚でありましたので、避難については、当初、義父からは「自分勝手だ」との叱責を受けました。そんな中、最後まで極々近い身内以外には打ち明けられずに避難しました。
4.                職場では取締役を拝命しておりましたが、蓄えは微々たるものでした。自らへのけじめとして会社を退職し、40歳を過ぎて見知らぬ土地で生きていくことには相応の覚悟を必要としました。平成23年の8月に静岡県富士宮市に自主避難しましたが、勤めた職場は1ヶ月で退職することになってしまい、同年11月には妊娠中の妻が早産の恐れから入院生活となり、幼稚園に通う息子の弁当を作り、送り迎えをしながら日雇いの工事現場作業員の仕事で生活を繋ぎつつ、同年12月に会社設立、翌年6月までの期間、小規模老人デイサービスの開設に奔走しました。「泥水を啜っても生き抜いてみせる」との覚悟がなければ到底乗り切れるものではありませんでした。

4、自主避難できない人たちの事情について
私たちは自主避難という道を選びました。しかし福島にはまだまだ沢山の子供たちが生活をしています。そして多くの親御さんが「これからでも避難したい」との希望をもっております。それでも避難出来ない理由に下記のようなことが挙げられると思います。
1.                私の義理の母は、義理の姉(知的障害者)の健康を考えての避難を何度も考えました。しかし、義父はもう直ぐ80歳、生まれ育った先祖代々の土地に骨を埋める覚悟です。義母は「長年連れ添った父を置いてはいけない」と言いました。このように親類縁者とのしがらみや、家族間の理解の違いで避難したくても出来ない人たちは少なくありません。
2.                国や県が「ここは避難しても良い地域だ」と言ってくれれば何時でも避難したいという知人の女性がおります。復興を目指そうとの機運が高まる福島にあって「ここに住んでいても大丈夫なのだろうか」「この土地を離れたい」との言葉を発することは勇気のいることとなってしまいました。
3.                被災者という環境で更に、見知らぬ土地で生活をしていくことに対しての心理的不安は勿論のこと、それ以上に経済的不安から避難に踏み切れない親御さんも少なくありません。

5.国や自治体が責任をもって子供たちの集団避難を実施しないことについて

 国や自治体は、年間20ミリシーベルトの被爆までは容認との立場をとっております。しかし果たしてこれは絶対的に正しい数値なのでしょうか。仮に「絶対」がないのであれば、予防原則に立ち返り子供たちの未来、子孫の未来を守るべき措置をとるべきであり、「一番守るべきものは子供たちの健康と未来」との、人としての基本に立ち返るべきであります。
原発事故という人災の被害者に対して、国・自治体が「子供たちの集団避難等を行い被害者を積極的に守ろうとする措置」をとらずに、自主避難という方法でしか自らの命・健康を守ることが出来ないという状況を生み出していることは、命を軽視している行為であり、人権侵害に当たるのではないのでしょうか
1日も早く、このような事態が改善され、人災事故の被害者の人権が回復されることを願います。

平成24年11月22日
     
        長谷川 克己   
   

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