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2016年4月7日木曜日

世界の物差しで福島原発事故を再定義する:「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」報告2。フィリップ・ビヤール「《放射性肉》と呼ばれる人びとのたたかい」

他の人たちが快適に生活するための電力をつくりだす仕事をしている私たちがなぜガンになって苦しまなければならないのか。
 他の人たちがよい生活を送るために、なぜ私たちが病気にならなくてはならないのか。
 反原発運動は、「自分たちが病気にならないために」闘うのではなく、「他の人が病気にならないために」闘うべきだ。そうしなければ自分たちのための闘いに勝てないのだから。
原発下請け労働者がガンになることを放置しておくような闘いは、自分たちの闘いでも勝てないだろう》(フランスの原発下請け労働者 フィリップ・ビヤール「《放射性肉》と呼ばれる人びとのたたかい」

核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」の分科会 『被曝労働問題の現状〜フランス・ウクライナ・韓国・日本』で、フランスから来日した、1985年から原発下請け労働者として働いてきたフィリップ・ビヤールさんの「被ばく労働問題の現状」についての発言と、彼のインタビュー記事「《放射性肉》と呼ばれる人びとのたたかい」です。

フィリップ・ビヤールさんの略歴->分科会の配布資料
  
分科会「被曝労働問題の現状」での発言


2011.9.25のインタビュー記事「《放射性肉》と呼ばれる人びとのたたかい」(稲葉奈々子)より

 原発事故は既に起きている

 ビヤールさんは、反原発運動の主張に共感しながら、他方で、「もし原発事故が起きたら」を前提にする運動の論理を支持しない。なぜなら、「原発事故は(フランスでも)すでに起きているから」。
 人々が危惧する事故というのは、要するに自分や自分の家族が病気になることへの危惧だ。しかし、原発のリスクをすべて引き受けている下請け労働者はすでに病気になっている。つまり、原発事故はもう起きている。放射性物質が大気中にまき散されるような事故が起きなくても、私たちにとっては、原発事故はすでに起きている。私たちはすでに病気になっているからだ。一人が病気になるたびに事故は起きている。人々が真剣に考えるようになるまで、何件の事故が起きればいいのか。私たちの団体は反原発運動とも手を結んでいるが、私は彼らの運動は誤りを犯していると思う。反原発運動は、原発事故が起きることを恐れるのであれば、何よりもまず現時点で、原発で働いている労働者の権利を擁護すべきである。
これは単なる労働運動ではない

 ただし、ビヤールさんが求める、原発下請け労働者の健康を守る運動は単なる労働運動ではない。
  だからといって、労働運動にコミットしろと言っているわけではない。これは労働組合だけの闘いではない。それに、たったひとつの労働組合が取り組むだけで勝てるような闘いではない。すべての人たちの闘いだ。労働組合は「私たちは地球を救うために闘う」とはいえない。ひとつの労働組合が地球を救えるわけはなく、人々のごく一部だけが関与する闘いではない。すべての人が関与しなくてはならない闘いだ。
 原発を止めるための運動と、今現在原発で働いている人の健康を守るための運動は同時進行しなければ意味がないと思う。
 私は電力労組のあり方を許さない。自分たちの組合員が被ばくするような労働を雇用主に許容する労働組合などあり得ない。だから原発を止めなくてはならないことは明白だ。しかし明日すぐに止まらないことも明白だ。だから、労働者が被ばくしないために闘わなくてはならない
 「人間としての思考」で活動したい

  ビヤールさんが、原発下請け労働者の健康を守る運動の主体を、労働組合ではなく、「市民団体」にしたもう1つの理由は、労働組合に依存しないことにある。労働組合に依存せずに、原発下請け労働者が病気になったとき、みずから権利を行使するためである。「労働組合としての思考」ではなく、「人間としての思考」で活動したいから、とビヤールさんは言う。
  ビヤールさんはそれまで1箇所の原発が職場だったが、会社から全国の原発を渡り歩く雇用形態変更を命じられ、これを拒否し、その不当性を訴える裁判を起した。しかし、裁判にあたって複数の労働組合の協力を得たが、どの労働組合が主導権を握るかで対立となり、肝心の物事が先に進まないことから、「労働組合としての思考」を見限ったという。
 私たちの役割は、原発下請け労働者の健康への権利行使だ。そして、私はその点について雇用主と交渉するつもりはない。私たちは法律が厳格に適用されることを求めるのみだ。原発下請け労働者の健康への権利を侵害する雇用主に対して「正義」が下されることを求めることが目的だ。私たちの団体の目的は、雇用主と交渉することではなく、労働者が病気になったとき、自分たちの権利を行使するための団体だ。
 他人の不幸の上に成り立つ私たちの幸せ

 「社会的に許容しうる程度」として、原発下請け労働者の健康被害は簡単に片付けられてしまう。その必要性は「多少の犠牲」を伴っても、社会全体にもたらす利益のほうが大きいという論理である。
  ビヤールさんはこの論理に反駁する。
 原発に賛成する人たちは、たとえば国の安全保障のためだったり、生活の便利のためだったりする。多くの人たちにこれだけの利益をもたらすのだから、原発は必要だ、と。しかし、そう言う人たちには、実際に病気になった労働者たちの姿を見せて、
「これがあなたたちが望んでいることなのか。多くの人たちの利益のために、これが必要だというのか」
と問いたい。自分の
幸福のために他人の不幸を必要とするのはおかしい。
 他の人たちが快適に生活するための電力をつくりだす仕事をしている私たちがなぜガンになって苦しまなければならないのか。
 他の人たちがよい生活を送るために、なぜ私たちが病気にならなくてはならないのか。
 反原発運動は、「自分たちが病気にならないために」闘うのではなく、「他の人が病気にならないために」闘うべきだ。そうしなければ自分たちのための闘いに勝てないのだから。原発下請け労働者がガンになることを放置しておくような闘いは、自分たちの闘いでも勝てないだろう
  ビヤールさんは、原子力推進派の人々に対して、ガンで闘病している仲間の凄惨な写真を見せてやりたいと言う。
  これをいつまで必要とするのですか、と。
 原発下請け労働者の健康への権利とは、人間としての尊厳への権利にほかならない。 

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