一昨年の3.11まで、わたしは裁判とはもっぱら事実と法律によって裁かれるものであり、それ以外の要素は邪道であり、雑音であると考える伝統的な法律家の一人でした。
しかし、いざ、ふくしま集団疎開裁判を体験してみて、これが全くの幻想であることを、一昨年12月16日、野田前総理の欺瞞的な「冷温停止宣言」とほぼ同じ頃に出された一審判決の日に、ガツーンと頬っぺたを殴られるように、この真理を知らされました。
「疎開裁判(一審)の概要」を読まれたら分かりますが、たとえどんなに真実を明らかにし、どんなに正義を明らかにしようとも、それを支持する力が働かない限り、真実と正義の裁判は実現しないのです。
では、その「力」とは何か? それは大勢の市民の皆さんが支持する声のことです。
これについて、チョムスキーはこう言います
外部の支えがなければ、裁判官に何の力もありません。つまり、大企業も国家も、司法による調査を望まない、という単純極まりない理由で、政府が裁判官の手綱を握っているのです。‥‥よほど強い世論の圧力が働かないかぎり、権力を持つ相手に対しては司法に頼ることはできません。(チョムスキー世界を語る99~101頁)その生きた実例が、日本政府が今なお採用できない、世界標準であるチェルノブイリ住民避難基準が旧ソ連で採用されたことです。
全体主義国家で人権もなく、今の私たちのように人権救済のための集団疎開裁判も起こせなかった旧ソ連で、なぜ地元住民の命を放射能から守ったチェルノブイリ住民避難基準(私はこれをチェルノブリ憲法9条と呼びます)が採用されるという奇跡のような事態が出現したのか--理由は簡単です。情報公開と市民のデモがそれを実現させたのです。
これについて、昨年年9月16日に放送された「シリーズ チェルノブイリ原発事故・汚染地帯からの報告『第1回 ベラルーシの苦悩』」で、次のように紹介されています。
昨年4月来日し、郡山で講演をした、事故当時ベラルーシ核エネルギー研究所の研究者だったミハイル・マリコ博士はこう証言します。
原発から北に50km、ホイニキ地区にあるニコライ・サドチェンコさんの農場では、事故から3年経っても、汚染の実態が秘密にされたまま、農産物を作り続けていた。このままで住民の健康は守られるのか?汚染はどの程度なのか?ニコライさんは、調査にやって来た科学者たちから情報を集めた。私たち研究者は、土壌や食品の分析をしました。結果はすべて機密扱いでした。「汚染地図は1986年6月27日に、ベラルーシ共和国指導部に提出されました。しかし、汚染地図を見たのは指導部の数人で、地図製作に関わった私も見ていません。
手に入れたデータが示す土壌や農産物の汚染は、想像以上に深刻だった。牛乳に含まれるセシウム137は、事故から3年経っているにもかかわらず、1リットルあたり285ベクレル。事故前の700倍に上がっていた。肉類は400倍。穀物の中には7,000倍の値を示すものもあった。これが3年にわたって放置 されたニコライさんの農場の汚染実態でした。
さらにニコライさんは、首都ミンスクの国立衛生学研究所に働きかけ、村の子供達に健康診断を受けさせた。
「これを見ると、140の症状が見つかり、そのうち44例が甲状肥大でした」
検査を受けたのは129人。甲状肥大以外にも目の病気が32人。消化器の病気が31人。他にも心臓病、呼吸器疾患など様々な病気がみつかりました。
汚染地帯のあちこちで子供達の健康が悪化。ベラルーシの人達の間で、放射線への不安が広がります。
情報の開示を求め、政府を批判する一般市民のデモが繰り返されます。
当時のソ連ではデモは異例のことでした。
しかし、そのデモの結果、市民の声に動かされたベラルーシ政府とミンスクで市民との間で対話集会が開かれます。マリコ博士も参加しました。
この集会で初めて汚染地図が公表されました(ソビエツカヤ・ベラルーシ紙 1989年2月9日)。
人々は、これまで避難の必要がないとされていた地域にも、放射能汚染が広がっていることを、この時初めて知りました。マリコ博士の証言。
セシウム137が55万5千ベクレルを超える地域(注:年5mSv以上の強制移住地域に相当)に、10万人以上が住んでいると明かされました。
「ゴメリ州の人々は、原発から150キロ以上離れた自分達の居住地域の中に、原発周辺にも匹敵する濃厚な汚染地が存在することを知らさせることになった。‥‥そのころには、子どもたちの間に甲状腺障害が出始めるなど、汚染地帯に暮らす人々の健康への影響があらわれ始めていた。やがてそれは、政府に対して、正当なる保証と医療、そして新たな避難措置を講じるように要求する(市民)運動に発展してゆく。各地で数万規模の集会(デモ)が開かれ、ソ連人民代議員大会の選挙では、汚染地帯出身の候補者が、共産党の候補を破り当選する。」(NHK教育テレビ(ETV)「ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」のディレクター七沢潔「原発事故を問う--チェルノブイリからもんじゅへ」【岩波新書】236頁。表現を一部追加)
1989年7月、 ベラルーシ科学アカデミーで、汚染地帯に住む人々の被曝限度量をめぐる専門家会議が開かれました。
ソビエト政府の立場で、事故1年目に100ミリシーベルト(mSv/年)を基準と決めたイリイン・ソ連医学アカデミー副総裁は、2年目は30mSv/年、3年目は25mSv/年を基準値と主張。
これに対しマリコ博士らベラルーシの科学者は、年間1mSvを基準とすべきだと主張、真っ向から対立し、議論は平行線のまま会議は終わった。当時ベラルーシはソビエト連邦の1共和国に過ぎず、ソ連政府の圧倒的な力の前にその主張は通りませんでした。
しかし、その膠着状態を変えたのが、またしても市民の連合の声=力でした。
汚染対策を求める声がベラルーシ全土に広がりました。首都ミンスクを始め、全国各地でデモやストライキが開かれました。ペレストロイカ以降の民主化の波がこの動きを後押しした。
独立への機運が高まる中、ベラルーシで独自の放射能対策を定める法律が制定されました(1991年2月22日 チェルノブイリ原発事故被災者に対する社会的保護について)。
いわゆるチェルノブイリ法。年間5mSvを超える地域では、国が住居と仕事を用意して、汚染の少ない土地へ住民を移住させる。年間1mSv~5mSvの地域でも、住民が希望すれば住居と仕事の提供を受けることが出来る「移住の権利」が、こうして世界で初めて認められるに至ったのです。
市民の連合の力が最強の力であり、これなしには、どんな真実もどんな正義も絵に描いた餅です。真実も正義も、市民の支持があって初めて日の目をみるのです。
このチェルノブイリの経験こそ、私たち市民が学ぶべき最大の訓えの1つです。
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